●大野丸(おおのまる)


◆大野丸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E4%B8%B8
大野丸(おおのまる)は、江戸時代末期の安政年間に、大野藩樺太開拓用に建造した西洋式帆船。
日本の国産洋式帆船として初期の例のひとつで、幕府建造の「箱館丸」などと同型である。
交易に使用されたが、座礁事故で沈没した。
 
建造
江戸時代後期の大野藩では、藩主土井利忠の下で藩政改革に取り組んでいた。
外国の技術や文化にも注意が向けられており、蘭学の研究や高島流砲術などの洋式兵術の実施につとめていた。
利忠の登用した内山七郎右衛門(良休)と隆佐兄弟は、1854年安政元年)に北蝦夷地(樺太)開拓を提案、
1856年(安政3年)に幕府の許可も得られて大野藩は計画を実行することになった。
総督以下をもうけ、藩士を派遣して実務にあたらせた。当時、樺太日露和親条約によって日露雑居地となっており、
幕府は樺太を含めた蝦夷地の開拓事業者を募集していた。
大野藩は大型船は保有していなかったため、当初は商人から雇った和船を使用したり、陸路を使ったりしていたが、
本格的な開拓と交易のためには船足が速く堅牢な船舶が必要であるとの意見が出た。
そこで、西洋式の大型船の建造が計画されることになり、
1857年2月(安政4年1月)には内山隆佐が洋式造船の調査のために江戸へ向かった。
大野藩士の吉田拙蔵も幕府の海軍所で教育を受けている。
同年11月、箱館奉行所用の造船に関わっている栖原長七による建造の伺いが立てられ、その結果、箱館形1隻を大野藩用に建造することに決まった。
西潟の船大工である木村治三郎の設計との説もある。
天領の川崎稲荷新田(現大師町の一部)にあった造船所に竜骨をすえつけ、起工した。
安政5年6月に、約10000両もの経費をかけて船体が完成し進水をおえた。その後、品川沖に回航されて艤装工事を受けた。
完成した船は「大野丸」と命名された。
形式は君沢形とも称されたが、幕府建造の君沢形帆船とは厳密には異なった設計で、
帆装形式は箱館形と同じ2本マストに縦帆と横帆を併せ持つトップスル・スクーナーである。
要目は長さ18間(32.7m)、幅4間(7.3m)、深さ3間(5.5m)であった。
 
運用
竣工した「大野丸」は、1858年9月12日(安政5年8月6日)に品川を出港し、浦賀に滞留後、
関門海峡を通って10月30日(同9月24日)に敦賀港へ到着した。
敦賀に入港した「大野丸」を見るため、藩の重役多数が訪れている。
敦賀ではさっそく藩士や町民から船員が募集され、三国湊の船頭だった佐七郎が船長に採用された[3]。
翌1859年4月23日(安政6年3月21日)、大野丸は蝦夷地への最初の航海に出発した。敦賀から日本海を北上し、
5月1日(同3月29日)には箱館に入港できた。その後も何度も蝦夷地と敦賀を往復し、交易物資などを運んでいる。
この間、1859年9月中旬(安政6年8月中旬)には、奥尻沖で遭難したアメリカ船「ヘスプリング」を救助し、
幕府とアメリカ政府から謝礼をうけた。
小藩に過ぎない大野藩が洋式船を建造したこと、
アメリカ船を救助したことなどによって「大野丸」の名はとうじ嘖々(さくさく)たるものがあった。
交易でかなりの富を大野藩にもたらしたと思われる「大野丸」であったが、
1864年9月24日(元治元年8月24日)、択捉島へ鮭の積み取りに向かう途中、根室沖で座礁、沈没した。
乗員は搭載の伝馬船で脱出し、全員無事であった。
「大野丸」の喪失とその2月前の内山隆佐の病死により、大野藩による北蝦夷地開拓の試みは事実上とん挫することになった。
 
脚注
1.^ 福井県(1996年)、「第六章 第二節 三 幕府の北方政策」(隼田嘉彦執筆)
2.^ a b 岡田健蔵 「大野藩の出店と箱館戦争」『函館百珍ト箱館史話』 1956年(初出は函館毎日新聞1916年)
3.^ a b c 福井県(1996年)、「第六章 第二節 三 大野丸の進水」(隼田嘉彦執筆)
4.^ a b 福井県(1996年)、「第六章 第二節 三 処女航海」(隼田嘉彦執筆)
 
大野藩(おおのはん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E8%97%A9
大野藩(おおのはん)は、越前国大野(現在の福井県大野市)に存在した藩。居城は大野城亀山城)。
土井氏
譜代 4万石
 
越前国(えちぜんのくに)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%89%8D%E5%9B%BD
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
 
福井県(ふくいけん)は、日本海若狭湾に面する日本の県。
 大野市(おおのし)は、福井県の東部に位置する市である。
 大野藩(おおのはん)は、越前国大野(現在の福井県大野市)に存在した藩。居城は大野城亀山城)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E8%97%A9
 
◆天空の城!雲海に浮かぶ越前大野城がなんだか神秘的【福井県
https://icotto.jp/presses/5463
福井県大野市にある「越前大野城」をご存知ですか?
雲海の上にお城が浮かぶ幻想的な光景が見られるため、「天空の城」と呼ばれ非常に人気のあるスポットなんです。
雲海と山頂に佇むお城のコントラストがとても美しく、目の前にすると現実とは思えないほどの感動を味わえるはず!
今回はそんな越前大野城の魅力と、周辺のおすすめスポットをご紹介していきます。(2016年11月14日 最終更新)
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◆天空の城の越前大野城はどこにある?いつ見れる?撮影ポイントと注意点!
https://azimano.info/archives/686
2018.04.16
天空の城 越前大野城の撮影場所をしらべてみた
「天空の城」と言われる越前大野城を知っていますか?
天空の城は、条件がそろった日だけ、
 姿を見せてくれる天空に浮かんで見える幻想的なお城
越前大野城は、
 福井県大野市にあったお城です。
昭和43年に絵図や同時代の城を参考に再建されました。
お城の場所は、
 大野市北西部に位置する大野盆地。
 標高249mの亀山に築かれた平山城です。
https://youtu.be/1EbsuwAFvzY
ただ、こちらの天空の城は、
いつでも見れるわけではありません。
10月から4月末頃に、見れる可能性が高く、
11月頃が最も「天空の城 越前大野城」が出現する時期といわれています。
出現する時間帯は、
明け方から午前9時頃まで
そして、
 気象条件が整わないと見れませんので、
 実際に見れる確率はかなり低いです。
天空の城を見るのは、
かなりハードルが高めです。