荒島岳日本百名山、名物「もちが壁」!! - 2014年06月15日(日) [日帰り]
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-464765.html
コースタイム [注]
中出駐車場ー小荒島岳ーしゃくなげ平ー荒島岳ーしゃくなげ平ー小荒島岳分岐ー中出駐車場
コース状況/
危険箇所等 中出駐車場を利用させて頂きました。
・駐車場は広く、
・綺麗なトイレがあり、
・湧水の水場もあって、
・同じ建屋に「登山届提出所」も併設、
・下山時に火照った足を冷やす「名水治足」まで...
利用者には、とても有難い駐車場です(感謝)

この時期は勝原コースより中出コースの方が涼しいようです。
コースは良く整備されていて迷うことはありません。
但し、名物「もちが壁」は十分に注意してください。
 
◆もちが壁 | 山の最新情報、登山情報 - ヤマレコ
https://www.yamareco.com/modules/yamainfo/ptinfo.php?ptid=7024
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もちが壁
https://yamareco.org/modules/yamareco/upimg/139/1392868/t_6e043160f204fb0ef8dd7e74f5d7ede0.JPG
山の解説 - [出典:Wikipedia].
荒島岳(あらしまだけ)は、福井県大野市にある標高1,523mの山である。
別名大野富士(おおのふじ)。
日本百名山に選定されている。
白山と同様に泰澄が開山したと伝えられる。
山頂には荒島神社があり、信仰の山とされてきた。
 
荒島岳(あらしまだけ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B3%B6%E5%B2%B3
福井県大野市にある標高1,523mの山である。
別名大野富士(おおのふじ)。
日本百名山に選定されている。
白山と同様に泰澄が開山したと伝えられる。
山頂には荒島神社があり、信仰の山とされてきた。
山域は奥越高原県立自然公園区域に指定されている。
 
◆もちが壁  大野藩かく戦かえり  箱館戦争始末記  著者 佐々木正
福井新聞発行  平成30年一月  1200円
三ページに出る
荒島岳には何度か登山しているが初めて聞いた。
写真を見ると結構反り立った壁のように見えます。
この写真が間違えなければだけど。
最初から面白みが出てきた。
 
◆中野方面から水落(みずおとし)を通り代官町を抜けて下町口をくぐり三の丸通りを通り長屋門へ出る。

土井 利恒(どい としつね、嘉永元年7月19日(1848年8月17日) - 明治26年1893年)3月29日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E5%88%A9%E6%81%92
越前国大野藩の第8代(最後)の藩主。
利房系土井家8代。第7代藩主・土井利忠の三男。
正室は古河藩主土井利則の娘。
子は土井利剛(長男)ほか。
従五位上能登守。
明治に至って正四位、子爵。
 
◆江戸時代末期から廃藩置県までに存在した藩(1867年 - 1871年福井県
 大聖寺
 越前勝山藩
 大野藩
 丸岡藩
 福井藩
 鯖江
 ●敦賀藩(つるがはん)は、越前国敦賀郡(現在の福井県敦賀市)を支配した藩。
 別名を鞠山藩(まりやまはん)と言う。(鞠山藩 → 小浜藩)
 小浜藩
 
◆大野丸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E4%B8%B8
大野丸(おおのまる)は、江戸時代末期の安政年間に、大野藩樺太開拓用に建造した西洋式帆船。
日本の国産洋式帆船として初期の例のひとつで、幕府建造の「箱館丸」などと同型である。
交易に使用されたが、座礁事故で沈没した。
建造
江戸時代後期の大野藩では、藩主土井利忠の下で藩政改革に取り組んでいた。
外国の技術や文化にも注意が向けられており、蘭学の研究や高島流砲術などの洋式兵術の実施につとめていた。
利忠の登用した内山七郎右衛門(良休)と隆佐兄弟は、1854年安政元年)に北蝦夷地(樺太)開拓を提案、
1856年(安政3年)に幕府の許可も得られて大野藩は計画を実行することになった。
総督以下をもうけ、藩士を派遣して実務にあたらせた。
当時、樺太日露和親条約によって日露雑居地となっており、幕府は樺太を含めた蝦夷地の開拓事業者を募集していた。
大野藩は大型船は保有していなかったため、当初は商人から雇った和船を使用したり、陸路を使ったりしていたが、
本格的な開拓と交易のためには船足が速く堅牢な船舶が必要であるとの意見が出た。
そこで、西洋式の大型船の建造が計画されることになり、
1857年2月(安政4年1月)には内山隆佐が洋式造船の調査のために江戸へ向かった。
大野藩士の吉田拙蔵も幕府の海軍所で教育を受けている。
同年11月、箱館奉行所用の造船に関わっている栖原長七による建造の伺いが立てられ、
その結果、箱館形1隻を大野藩用に建造することに決まった。
西潟の船大工である木村治三郎の設計との説もある。
天領の川崎稲荷新田(現大師町の一部)にあった造船所に竜骨をすえつけ、起工した。
安政5年6月に、約10000両もの経費をかけて船体が完成し進水をおえた。その後、品川沖に回航されて艤装工事を受けた。
完成した船は「大野丸」と命名された。
形式は君沢形とも称されたが、幕府建造の君沢形帆船とは厳密には異なった設計で、
帆装形式は箱館形と同じ2本マストに縦帆と横帆を併せ持つトップスル・スクーナーである。
要目は長さ18間(32.7m)、幅4間(7.3m)、深さ3間(5.5m)であった。
運用
竣工した「大野丸」は、1858年9月12日(安政5年8月6日)に品川を出港し、
浦賀に滞留後、関門海峡を通って10月30日(同9月24日)に敦賀港へ到着した。
敦賀に入港した「大野丸」を見るため、藩の重役多数が訪れている。
敦賀ではさっそく藩士や町民から船員が募集され、三国湊の船頭だった佐七郎が船長に採用された[3]。
翌1859年4月23日(安政6年3月21日)、大野丸は蝦夷地への最初の航海に出発した。敦賀から日本海を北上し、
5月1日(同3月29日)には箱館に入港できた。
その後も何度も蝦夷地と敦賀を往復し、交易物資などを運んでいる。
この間、1859年9月中旬(安政6年8月中旬)には、奥尻沖で遭難したアメリカ船「ヘスプリング」を救助し、
幕府とアメリカ政府から謝礼をうけた。
小藩に過ぎない大野藩が洋式船を建造したこと、
アメリカ船を救助したことなどによって「大野丸」の名はとうじ嘖々(さくさく)たるものがあった。
交易でかなりの富を大野藩にもたらしたと思われる「大野丸」であったが、1864年9月24日(元治元年8月24日)、
択捉島へ鮭の積み取りに向かう途中、根室沖で座礁、沈没した。乗員は搭載の伝馬船で脱出し、全員無事であった。
「大野丸」の喪失とその2月前の内山隆佐の病死により、大野藩による北蝦夷地開拓の試みは事実上とん挫することになった。
 
◆徒目付 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E7%9B%AE%E4%BB%98
とは、江戸幕府及び諸藩に置かれた役職の1つ。
江戸幕府を初めとして目付支配(統括下)であることが多い。
江戸幕府の徒目付
江戸幕府の場合は交代で江戸城内の宿直を行った他、大名の江戸城登城の際の監察、
幕府役人や江戸市中における内偵などの隠密活動にも従事した。
伝承によれば、元和9年(1623年)徳川家光征夷大将軍として江戸城本丸に移った時、
道の途中で欠伸をしていた者を無礼であるとして討ち取った草履取りを賞して任じたのが最初とされている。
定員は享保3年(1718年)に40名となり、幕末期には80名となっており、
享保6年(1721年)には役高100俵5人扶持と定められている。
また、徒目付の上には役高200俵の徒目付組頭3名が置かれていた。
徒目付の番所江戸城本丸御殿の玄関右側に設置され、その奥に組頭の執務室が置かれていた。
他に目付部屋の2階に詰める組頭がおり、老中・若年寄から目付を経由して命令が伝えられ、それを番所に伝えた。
命令を受けた徒目付は自身及び配下の小人・中間・黒鍬者などを駆使して職務にあたった。
特に隠密を専門に担当する「常御用」と呼ばれる3・4名の徒目付が存在し、
内容によっては老中が人払いの上で直接命令を下すことがあった。
徒目付は小人目付や遠国勤務の下級役人から任じられたが、後には小普請世話役や表火之番、徒などからも登用され、
徒組頭や闕所物奉行・林奉行・油漆奉行・畳奉行などに昇進することができた。
諸藩の場合
諸藩でも幕府同様に徒目付が置かれた藩もあった。
 
◆かち [1] 【〈徒歩〉・徒▽】
①乗り物を使わず歩くこと。とほ。 「母御の-にて歩あゆませ給ふが御痛敷候/太平記 11」
②陸路を行くこと。
③武士の身分の一。江戸時代、幕府・諸藩とも御目見得以下、騎馬を許されぬ軽輩の武士。おかち。
④「徒侍かちざむらい」の略。
⑤「徒士組かちぐみ」の略。 〔③ ~⑤ は「徒士」とも書く〕
 
◆旗本・御家人
http://kenkaku.la.coocan.jp/zidai/hatamoto.htm
御家人と旗本は小普請、家禄が三千石以上か住職者の退職者は寄合に属する。
小普請組の場合、組に属する当主を小普請組支配本人か部下の組世話役が面接し、希望職種と本人の素行、
文武修行状況を聞き取り推薦者名簿を作成し若年寄に提出した。
 
◆小普請   こぶしん
江戸幕府における家臣団の一組織。 3000石以下の旗本,御家人の無役の者で編成され,旗本を小普請支配,御家人を小普請組とした。
無役無勤の者で普請があった際に家人や召使を出したのが起りである。
元禄3 (1690) 年,これまで人夫を出していたのを金納に変更して
知行高 20俵以下は無役,20~50俵は金2分,
50~100俵は金1両などと決め,これを小普請金といった。
小普請組に編入される者は,老幼,病疾,罪科などで職を免じられた者が多かった。
組織は時代によって変化したが,6~12組に分れていた。初め留守居支配であったが,享保4 (1719) 年に老中支配となった。
慶応2 (1866) 年陸・海軍奉行の支配となった。
 
◆掃除之者 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%83%E9%99%A4%E4%B9%8B%E8%80%85
掃除之者(そうじのもの)は、江戸幕府における職名の1つ。御掃除之者とも書かれる。
掃除之者には、
・吹上掃除之者(ふきあげそうじのもの)
・浜御殿掃除之者(はまごてんそうじのもの)
桜田御用屋敷掃除之者(さくらだごようやしきそうじのもの)
・紅葉山掃除之者(もみじやまそうじのもの)などもおり、それらもこの頁で扱う。
江戸城内の御殿の清掃を主な任務とした役職である。他に走り使いや物資の運搬にも従事した。
目付の支配で、御中間・御小人・御駕籠之者・黒鍬之者とともに五役(ごやく)と呼ばれる職である。
役高は10俵1人扶持。譜代席で白衣勤めであった。
 
江戸幕府役職一覧 - ビバ!江戸
http://www.viva-edo.com/yakusyokuitiran.html
普請役元〆, 普請役, 勘定方普請役下役・普請役元〆格代官手付・普請役格川船改役手付・代官手付普請役・代官手付普請役格. 勘定所湯呑所之者・勘定所 ... 小普請組支配, 小普請組支配組頭, 小普請組世話取扱・小普請組世話役. 大坂船手, 大坂船手与 ...
 
◆藩職制
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/1531/shoku-sei.html
大溝藩のような小藩では独自の職制を撮ることは少なく、江戸幕府の職制に準拠し,似たような職制をひいている。
ただし、江戸初期には簡素な職制であったが、時代が下がるにつれ、再分化煩雑化している。
ここでは、持っている資料から大溝藩における時代ごとの役職名とその人数について一覧にした。
時代は、江戸時代は慶安年間(1648~1652)に作成された譜代表の一部から。
ただし、その為に全ての職を確認したわけではなく、一部のみの記載です。
また、江戸中期は享保13年(1728)の給人帳(藩士の給料一覧)より。江戸後期は幕末期の上級藩主馬廻格の藩士の職名のみ。
江戸時代を通しておおむね変化がないように感じられる。
しかし、資料に不備が多く実際の職制の変化は理解できないが、おおむね2万石の小藩の職制が理解できると考える。
 
◆江戸時代の役職 | 気になることを調べてみましょう
https://ameblo.jp/orange54321/entry-11901250424.html
2014/07/28 - 江戸幕府の役職は、将軍を頂点として、その下の役職はほとんどが老中支配と若年寄支配に分かれていました。
幕府と諸藩の役人は分けられており、現代に例えると幕府の役人は国家公務員、諸藩の役人は地方公務員に相当していました。
 
◆諸藩の役職と石高には決まりはありません。世襲制になることが多いので、家老職の家は代々家老です。

勘定奉行の3000石というのは江戸幕府の職制です。勘定奉行町奉行の役高が3000石ということで家禄がそれ以下の者も就任期間中は3000石支給されるわけです。退任するともとの家禄に戻ります。これは身分の低い者を登用しようと吉宗が始めた「足し高の制」です。

諸藩の勘定方は身分が低いです。岡崎藩など5万石クラスの勘定方は150~200石くらいだと思います。諸藩には足し高の制はないので家禄に見合った役職に就くのが普通だったと思います。
 
江戸幕府の役職 - ビバ!江戸
http://www.viva-edo.com/yakusyoku.html
江戸幕府の役職の一つである公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)とは?
若年寄の支配に属し、将軍が束帯して外出の際、尿筒(しとづつ)を持って従う役。
将軍が尿意を催したとき公人朝夕人はこの竹の筒を袴(はかま)の裾(すそ)から差し入れて、用が済むまで持っていた。
当然、世襲でこの役を受けついだわけである。
江戸幕府の役職(職制)についての図解.
幕府要職は禄高十万石以下の譜代の大名および旗本で構成された。
諸藩の職制はほぼ幕府のそれに倣った。
江戸後期、大名・旗本・御家人あわせて470の役職数があった。
江戸幕府の役職の一つである公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)とは?
若年寄の支配に属し、将軍が束帯して外出の際、尿筒(しとづつ)を ... の大名および旗本で構成された。
諸藩の職制はほぼ幕府のそれに倣った。
 
福井藩の職制 - 福井県
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-03-03-02-03.htm
2003/03/02
藩の職制は、もともと大名の家政組織に始まり、戦いを繰り返すなかでまず番方が固まってゆき、
やがて農民支配を中心とする役方の機構が出来上がっていった。
「庄屋仕立て」という言葉もあるように、初めは簡単なものであったが、
大名として成長するにつれて大きくなりかつ複雑になった。
だいたい十七世紀を通じて整ったとされるが、
その後も藩政改革などによって手直しされることも多く固定的なものではなかった。
また職名や定員などを除くと、藩による違いもほとんどなく役割もほぼ同じであるといってよい。
そのためここでも、福井藩の「諸役年表」を中心にして、貞享二年のものを紹介するにとどめる。
この史料は同年以降幕末までの諸役職と役人名を書き上げたもので、
半知以前のことをまとまって知ることのできる唯一のものといってよい。
なお直接農民支配にかかわるものは後に回し、そのほかのものについて述べることにする。
以下人数は貞享二年の現員であり、知行高は「松平綱昌給帳」(松平文庫)によっている
 
◆『小説豆知識』《江戸時代の武士の階級・家格》について - 小説家になろう
https://ncode.syosetu.com/n6433cx/
作者:竹千代
今回は《江戸時代の武士の階級・家格》について説明致します。
武士のヒエラルキーを様々な藩の例を元に比較してみました。
それぞれの藩の特徴が表れていることにも注目するとより楽しくなります。
それでは、お楽しみ下さい。
 
◆こおり‐ぶぎょう〔こほりブギヤウ〕【▽郡奉行】
江戸時代、各藩に置かれて地方の行政に当たった職名。農民の管理や徴税・訴訟などを扱った。郡代
 
◆わずか2年後に廃藩 褒賞の領地増が無意味に 蝦夷派兵はなぜ行われたか 箱館戦争大野藩(4) 
http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/300235
2018/02/28
幕末から明治維新に至る過程は、日本の歴史上、類を見ないほどの激動期だった。
そして大野藩にとっての激動は、藩主・土井利忠公が天保13(1842)年に発した「更始(こうし)の令」から始まった。
利忠公が二の丸御殿に主だった藩士を集め、借金にあえぐ藩の運営方針を示した。
 
 利忠公は大野藩を無事存続させるため、悪化する藩財政に“非常事態”を宣言、藩士に減禄(げんろく)を頼み込んだ。
 
 その後、利忠公は改革の一環として、小納戸役の内山七郎衛門(良休)を銅山用掛頭取に抜擢(ばってき)し、
 弟の隆佐も重用した。
 藩主の信任を得た良休らはまたたく間に面谷(おもだに)銅山の経営を刷新し、
 たばこや漆を扱う藩営の物産店「大野屋」を全国に展開した。
 安政3(1856)年には、箱館の弁天町にも店を出した。
 安政5年、大野の特産品を蝦夷地に運ぶための洋式帆船「大野丸」を建造するなど、当時の藩勢はまばゆいばかりであった。
蝦夷地開拓のために大野藩が建造した帆船「大野丸」の模型。同藩の幕末の隆盛を象徴している=大野市歴史博物館
http://fki.ismcdn.jp/mwimgs/f/3/500/img_f3de2a9291bdc696e97cd3fdb7aeab1f64547.jpg
 
万延元(1860)年、オテソコロ岬からホロコタンまで直線距離にして約200キロ、その周辺の土地が幕府によって大野藩の準領地として認められた。
 
◆(第135号) ~江川坦庵公が考案した~ 韮山笠 (平成11年8月1日号)
https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn000098.html
1999/08/01
 三島市役所敷地の北東の隅に「農兵調練場跡」の碑が建っているのを知っていますか。
 江戸時代の終わり文久3年(1863)に、ここ三島陣屋で韮山代官の指導の下、農兵の調練が行われた記念碑です。
 農兵は代官江川坦庵公が創案したもので、上層農民の子弟を集め洋式調練を実施したものです。
 武士以外の人々に軍事調練を施すことは当時としては画期的なことで、全国から見学者がひきもきらなかったといわれます。
 この農兵達がかぶっていたのが「韮山笠」でした。
 考案したのは江川坦庵公といわれ、紙のこよりを編んだ笠に漆【うるし】をかけたものです。
 山野をかける時の便を考え水に強く、半分に折りたためるため、携帯に便利でした。
 幕末、韮山笠は農兵と共に全国に知られるようになりました。
 韮山笠が再度注目されたのは昭和の初期のことです。三島の久保町(現在の中央町)出身の平井源太郎が、大々的に
 農兵節の宣伝を始めた時、韮山笠をかぶり、江川代官家から借用した陣羽織をはおり、「農兵節」と書いた幟【のぼり】を
 立てて、市内はもちろんのこと東京や名古屋まで出向いて農兵踊りを披露しました。
 時代めいたいでたちに、大衆の注目を大いに集めたと言われます。この時箱根西坂特産の大根の宣伝も行い、
 大阪市場への出荷を増やす貢献をしました。
 農兵節がレコード化されたのは昭和9年(1934)のことで、ラジオで放送されるようになると、
 全国にたちまち知れ渡ることになりました。
 農兵節を通じて三島の名を広く知らしめた平井源太郎は優れた広報マンといえるでしょう。
 三嶋大社の夏祭りで農兵節パレードが踊られるようになるのは戦後のことですが、
 現在まで続くパレードで踊り手たちがかぶる笠は源太郎がかぶっていた韮山笠を模【も】したものです。
(広報みしま 平成11年8月1日号掲載記事)
https://www.city.mishima.shizuoka.jp/media/15010170_jpg_2006929_rad91018.jpg
 
◆ミニエー銃 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%BC%E9%8A%83
ミニエー銃(ミニエーじゅう、Minié rifle)は、パーカッションロック式(雷管式)の前装式ライフル歩兵銃である。
プリチェット弾を使うライフル銃としては最初期の物で
1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー(英語版)大尉によって開発された。
本来滑腔砲であるマスケット銃にライフリングを刻みこんだもので、ライフルド・マスケット(英語版)とも呼ばれる。
従来使用されていたゲベール銃(マスケット銃の一種)の銃身に改修を施す方法で製造された。
ミニエー弾と呼ばれる独特の弾薬を使用した。
弾丸が充分な回転を持ち弾丸周囲からのガス漏れが防止されたため、飛距離と命中精度が飛躍的に向上した。
また装弾が容易となり連射能力も向上した。
ミニエー銃。
イギリス陸軍ではミニエーM1851と呼ばれた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/Minie_rifle.jpg/240px-Minie_rifle.jpg
 
◆幕末の銃器
http://www.water.sannet.ne.jp/kazuya-ai/27/rifle-gun.html
先込め銃 RIFLE
 ミニエー銃  Minie
 ミニエー・ライフル銃
 フランス陸軍大尉クロード・エティエンミニエー(Claude Etienne Minie)によって
 開発された特殊椎実型弾を使用する先込め管打式銃の総称。
 1846年にミニエーは鉛弾後部に空間をつくり鉄や木やセラミックを充填し
 発射時にこの栓が弾体を拡張させライフリングにフィットさせることに成功した。
弾薬の装槙を容易にし、射程を伸ばし命中率を高め。
弾薬、火薬は、ハトロン紙で纏められている。
 フランスは1851年からアルジェリアに駐屯するアフリカ連隊に支給し、威力を示した。
 幕府は元治元年(1864年)に1861年式オランダ歩兵操典を翻訳して陸軍所の正式教範としました。
 同時に1861年式オランダミニエー銃を採用しています。
1861年式ミニエー銃の弾丸は仏式及びエンピロール銃(エンフィールド銃)より破壊力に優れていたためです。
1861年式は、二列火線の戦術で、フリントロック式時代には必要であった発火薬の先込めを廃止し、
弾丸の装填を最初に行い、雷管を最後に取り付けるという方式を採用しました。
その他の諸藩で最も一般的な「洋式銃」として流布しました。
慶応元年当時1挺18両 慶応四年ごろには一挺9両以下に値崩れしています。
      
58ミニエボールは.5775インチ(14.6mm)の直径を持って、500グレイン(1.14オンス・32.45g)の重さがあります。
各国で規格の違う銃が多く入ってきているので、ミニエー銃といわれるものにはエンフィールド銃やスプリングフィールド銃も含まれています。
オランダ製ミニエー銃 (幕府歩兵が装備)
 
口径 16.6mm 重量 
全長 1410mm 銃身 
銃剣  ライフリング 4条
弾薬   
米国製ミニエー銃 (スプリングフィールド銃)通称3ツバンド
 
口径 58口径
(14.73mm) 重量 
全長 1410mm ~
1345mm 銃身 
銃剣 456mm ライフリング 3条
弾薬 ミニエー式円筒-円錐の鉛弾頭
70グレインの黒色火薬  
通称2ツバンドは全長1195ミリ
  
◆演舞(エンブ)
[名](スル)舞を舞って公衆に見せること。また、舞を練習すること。「演武場」
 
◆桟敷(さじき)
関東大震災(1923)以後、ほとんどの劇場が椅子(いす)席に改められたが、
今日でも東京の歌舞伎座新橋演舞場、大阪の新歌舞伎座、京都の南座などにその名残(なごり)をとどめている。
なお、相撲(すもう)場でも桟敷席の称を使っている。[服部幸雄].
 
◆軍隊の食事 - chakuwiki
https://wiki.chakuriki.net/index.php/%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E3%81%AE%E9%A3%9F%E4%BA%8B
2018/02/11
全般の噂
1味より衛生とカロリーに気を使っていそう(特にアメリカ)
日本海軍の肉じゃが等、民間に広まった物も多い。
海上自衛隊のカレーは有名である。
思うに、お米が腹いっぱい食えるというフレーズは、
今で言うならば「ネット使い放題無制限、なおかつ無料」くらいのインパクトがあったのではないか?
それは軍隊だけじゃなかったもんな。
女工哀史」でも米のメシ食い放題が最大の売りで。
 
◆レーション - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
レーション(英語: ration)とは、本来は食料などの配給品(特に期間を区切って支給されるもの)であるが、
一般的には軍隊において軍事行動中に各兵員に配給される糧食(コンバット・レーション)を指すことが多い。
本項ではこのコンバットレーションについて記述する。
日本では
野戦食(やせんしょく)や
戦闘食(せんとうしょく)、
戦闘糧食(せんとうりょうしょく)、
野戦糧食(やせんりょうしょく)、
戦用糧食(せんようりょうしょく)、
携帯口糧(けいたいこうりょう)などと呼ばれる。
また、正式な用語ではないが、払い下げなどで一般に出回ったコンバットレーションを、
近年ではミリメシ(英語: military+飯の略)と通称することもある。
 
◆日本の兵食史 - k-takahashi's 雑記
http://d.hatena.ne.jp/k-takahashi/20100130/1264865134
2010/01/30
ひょんな事から戦中に書かれた『軍用糧食に関する研究』というリポートが某所から発見され、
そのリポートを幸運にも貸していただけることになったのです。
このリポートは旧日本軍の糧食に関して調べていると必ず登場する川島四郎主計少将が中佐時代に書かれたもので、
その情報量もさることながら、内容の凄さには本当に驚きました。(あとがきより)
このレポートを元に、主に大戦時期の日本の兵食について紹介したもの。
一兵士の体験録ではなく、軍全体の視点があるのが面白い。
最初に少しだけ歴史的な話もあるが、基本的には大東亜戦争時のものである。
 
◆蒸気船 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B8%E6%B0%97%E8%88%B9
蒸気船(じょうきせん)とは、蒸気機関を用いスクリュー・プロペラや外輪を廻すことより推進する船のことである。
蒸汽船や汽船ともいう。
一般に蒸気船といえば石炭を燃料とする古典的な船のことを指し、
蒸気タービンや原子力による蒸気機関を持つ船は蒸気船と呼ばれない。
 
◆図説福井県史 近世34 大野屋と大野丸(1)
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/C34/C341.htm
34 大野屋と大野丸(1).
幕末のころには、日本全国ほとんどの藩が赤字財政に苦しみ、社会は行き詰まって、人びとは途方にくれていました。
ところが大野藩は、百姓や町人に特産物を作るようすすめ、大野屋という藩営の取次店を全国各地に設けてこれを販売し、
利益をあげていました。
また、幕府の許可を得て蝦夷地南部、現在の北海道渡島半島の内陸部を調査し、
さらに北蝦夷(ロシア領サハリン)まで渡って開拓や交易をこころみました。
大野屋の商品運送や蝦夷地への往来のために大野丸という西洋式の帆船も買い入れています。
 
◆図説福井県史 近世34 大野屋と大野丸(2)
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/C34/C342.htm
34 大野屋と大野丸(2).
このような改革に大きな影響を与えたのは家臣の内山兄弟です。2人は「更始ノ令」以来、しだいに重要な役職につき、
兄七郎右衛門(良休)はおもに銅山などの産物や財政を受け持ち、弟隆佐は大野藩西方領(丹生郡)の代官となり、
その後「蝦夷地総督」になって活躍します。
のちに2人とも家老になりますが、大野屋を設けこれを全国に広げたのは兄、大野丸に乗って各地をめぐり、
蝦夷地調査の先頭に立ったのは弟隆佐です。
 
◆[PDF]第28号「 新領地を求めた大野藩の挑戦~蝦夷地開拓と大野丸~ 」 - 福井県
http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/brandeigyou/brand/taiga_d/fil/rekisihiwa028.pdf
2017/06/20
白山の支脈に取り囲まれた越前大野。今回は、この地を治めた大野藩が、幕末に藩の命運をかけて取り組んだ
蝦夷地開拓と洋式帆船「大野丸」の建造を取り上げます。
江戸時代の終わり頃、大野藩は全国の諸藩同様、莫大な借財に苦しんでおり、
藩主、土井利忠は、内山良休と隆佐の兄弟を抜擢し、改革に当たらせました。
兄、良休は主に銅山などの産物や財政を受け持ち、弟、隆佐は大野藩西方領(丹生郡)の代官を務めた後、
蝦夷地開拓を任されました。
良休は、安政2(1855)年に、藩直営の商店、大坂大野屋を開設。
その後、これを全国に広げ、着実に財政再建を進めていきます。
一方、隆佐は、安政2(1855)年冬の幕府の蝦夷地開拓奨励を受け、良休らとともに利忠に応募を進言。
4万石の大野藩が、新しい領地を得るための新事業に乗り出しました。
 
◆家紋の由来_井筒紋・井桁紋
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/izutu.html
井筒紋・井桁紋.
井筒は「○」形で、井桁は、「井」形だったが、いつのころからか井筒が「井」で、
井桁は井の字が立った形をいうようになった。
おおむね、今井、花井など井の字のつく苗字をもつ家が使用しているようだ。
井戸は人間には欠かせない水に関わるところから、紋にされたようだ。(丸に隅立て井筒)
【主な使用家】
 井筒のほうでは、清和源氏流の酒井、今井、北村、山下の諸氏。
 宇多源氏流の井野氏、藤原氏流の細井戸、川井、垣部、末吉の諸氏が使用している。
 一方、井桁は清和源氏流の花井、折井、藤井の諸氏。
 平氏流の長井、井田、坂井の諸氏、藤原氏流の浅井、橋本、半田の諸氏が用いている。
 苗字に「井」の字を持った家がやはり多い。
 
◆井桁紋 -地から湧き出る命の水の不思議な力の象徴- 乃木希典井上靖井深大... - 一本気新聞
http://www.ippongi.com/2009/01/18/igeta/
人間のとって最も大事なものは生命の源・水である。
古来、人々は、その水が地中から湧き出る泉、そして井戸をどれだけありがたがったことであろうか。
この井桁紋、井筒紋は、そんな日本人の地から湧き出る水の神秘さと感謝を紋所にしたものである。
また、井戸は冥土との通り道との俗信もあった。
小野篁が井戸から地獄の閻魔大王の元に通っていたという伝説や、能楽の「井筒」の物語もそんな中の一挿話である。
井桁紋と井筒紋は類似しているが、通常、井桁紋は菱形、井筒紋は正方形のものを指す。
全国で27位の分布。特に鹿児島県(15位)、和歌山県(18位)、群馬県(19位)で多く見られる。
 
◆よしみの意味。
・名詞
①親しい交わり。親交。
出典平家物語 八・緒環
「いかなる姿にてもあれ、この日ごろのよしみ、何とてか忘るべき」
[訳] どんな姿であっても、この日ごろの親しい交わり、どうして忘れることがあろうか。
②関係。因縁。縁故。ゆかり。
出典平家物語 四・競
相伝のよしみはさる事にて候へども」
[訳] 先祖代々の因縁はそのような事でございますが。
 
◆めん ぶち 【面扶持▽】.
江戸時代,凶作などで役高通りに扶持高がゆき渡らないとき,家族の人数によって身分の上下を問わず給与した扶持米。
つらぶち。
 
◆扶持米(フチマイ)
扶持として給与される米。俸米(ほうまい)。
 
◆ふ‐ち【扶▽持】
[名](スル)
1 助けること。扶助すること。
「ねんごろに―して置かれたが」〈芥川・奉教人の死
2 主君から家臣に給与した俸禄。江戸時代には、一人1日玄米5合を標準とし、この1年分を米または金で給与した。
3 俸禄を支給して臣下とすること。
「若党どもをも―し置き」〈太平記・一六〉
 
◆俸禄【ほうろく】
(1)封禄とも書き,古代,皇親律令官人に支給した俸給。特定の身分や位階,官職などに応じ(位封・職封・位禄・季禄として),食封(じきふ)(封戸(ふこ))・【あしぎぬ】・綿・布などが支給された。封禄制度は大宝令で整う。
(2)近世幕藩体制下,知行地を持たなくなった家臣が領主から給与された扶持米(禄米・俸禄米)。俸禄米は幕府御蔵・藩蔵から支給されたので,受給者を蔵米取(くらまいとり)といい,この制度を俸禄制という。江戸時代初期には地方知行も多くみられたが,その後は蔵米取が激増。
 
◆幕末の大野藩・大野屋 - 株式会社平成大野屋
http://www.h-onoya.co.jp/cp/about/bakumatsu.php
大野市が起こした「平成大野屋事業」は「大野藩大野屋」の存在が大きく影響しています。
大野藩大野屋は、幕末に藩直営の商店として開業しました。大野の特産と他地域の特産の交易によって藩の財政に
大きく貢献した、江戸時代の「第3セクター」です。
江戸時代において「商い」は商人の生業です。武家である大野藩が「大野屋」をつくったのには大きな理由がありました。
当時の大野藩には莫大な借財があり、財政が苦しい中での苦渋の決断だったのです。
その時の藩主「土井利忠(どいとしただ)」は、後世に名君として名をのこし、
大野市のシンボル「越前大野城」がある「亀山」には銅像が建てられています。
その利忠を補佐し、「大野屋」の実質的な経営者だったのが、家老「内山良休(うちやまりょうきゅう)」です。
藩の財政を立て直す拠点として、期待を一身に背負っていた大野藩大野屋。
その経営はどの様なものだったのでしょうか。
財政再建の「要」
当時の大野は煙草を生産しており、それをつかっての交易が大野藩大野屋の第一歩となります。
出店した場所は大阪の北久太郎町1丁目。ここを皮切りに、大野屋は全国へと店舗数をふやしていったのです。
大野の産品を他地域で販売し、その地域の産品をまた別の地域で販売するといった経営方法で、着実に利益をあげていきました。
さらに開店から数年後には「洋式帆船 大野丸」を完成させ、洋上交易によりさらに収益をあげるに至っています。
最盛期には、店舗数を37店にまで増やし大野藩の財政を支える屋台骨となりました。

財政再建の「要」
平成大野屋事業はかつての大野藩大野屋に習い、活動の場を全国に広めることで地元「越前おおの」の振興を図る目的で
立ち上げられました。
その一翼を担うのが株式会社 平成大野屋です。
藩のため利益を求めた大野藩大野屋と同様、市のため、
ひいては市民の為に利益を獲得できる企業として日々業務に取り組んでいます。
その中で、越前おおのの良さを余すところなく他地域の方へお伝えするとともに、
他地域からの良い情報を積極的に取り込むことで、地元の振興・発展に寄与するよう、挑戦していきます。
 
◆殖産興業 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%96%E7%94%A3%E8%88%88%E6%A5%AD
殖産興業(しょくさんこうぎょう)
明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策を指す。
狭義では明治政府による新産業の育成政策を指す。
国策であるから民営化は黒田清隆などに否定された。
広義では、明治政府以外の各政府(江戸時代の各藩など)による新産業の育成政策も含める。
殖産興業による好景気で殖産興業景気と呼ばれることがある。企画立案は官僚の前田正名である。