縄文の神・「正座」


◆2571《05》Jomon God in Sumerシュメールに渡った縄文の神・アヌンナキby Hiroshi Hayashi, Japan
https://youtu.be/pp1Xs5fotSY
Hiroshi Hayashi
2018/05/13 に公開
私たち人間には、人間がまだ知らない、隠されたもうひとつの歴史がある。
 
◆『縄文の神』 戸矢学
http://jhfk1413.blog.fc2.com/blog-entry-4379.html
日本固有の民族信仰、つまり古神道から神社神道へ移り変わっていく信仰は、自然信仰が原則であって、偶像を持たなかった。山や岩や木を拝み、特定の姿を求めなかった。

しかし、仏教が伝来するに及び、寺院に似せて神社が作られるようになり、本殿には「御神体」が祀られた。
御神体は鏡が最も多く、他に剣や勾玉があり、それが神の依代となる。それでも御神体に依ります神は、
姿はなく、神威のみの存在である。

縄文の信仰形態は各地に残される。熊野信仰は三社よりなる。家都御子大神を祀る熊野本宮大社
熊野速玉大神を祀る熊野速玉大社。熊野夫須美大神を祀る熊野那智大社。いずれの神も記紀には登場しない。

「ケツミコ」の「ミコ」は巫女。「ケツ」は御饌津神・御食津神の「ケツ」。
「御」は尊称。「ケ」を現すのは「饌」「食」で食べ物をさす。
「ツ」を現す「津」は、“~の”という意味で、全体では食物神ということ。
古事記では大宜津比売神、おそらく大食津比売は殺されることで、そこから様々な食物を生み出した。
死体から農作物が生まれるとするのは神話のパターンで、「ハイヌウェレ型神話」という。
この食物起源神話は弥生より古く、つまり、縄文の神である。
 
『縄文の神』    戸矢学
河出書房新社  ¥ 1,944
http://ur0.link/K24l
よみがえる精霊信仰 縄文の名残の中にこそ、日本人の原点がある
第一章  ヒモロギ信仰 縄文人の森
第二章  イワクラ信仰 縄文人の岩
第三章  カンナビ信仰 縄文人の山
第四章  コトダマ信仰 縄文人の言葉
第五章  ムスヒ信仰  縄文人の霊 
 
◆縄文の神の封印と天照のルーツ
2013年06月12日(水)
https://ameblo.jp/clearmk/entry-11550019178.html
古事記を元に、天照大神は天の岩戸にお隠れになった女神様であると一般的にはされていますが、
元々は「太陽神としての男神」だったのが「女神」に置き換えられ、更には
縄文時代から続いた日本古来の、多くの神の存在を封印したとする説があります。

ヘミシンクで有名な坂本政道氏著作の「ベールを脱いだ日本古代史」(ハート出版)から
日本のルーツについて、シリコンキッドさんがまとめて下さっています。

長文ですが、ムーやシリウスと繋がっていた縄文の神々の封印や、どのような経緯で
天照大神が日本に伝わってそれが今に伝わる伝統となっているのか、詳しく書かれていて、
私は大変参考になりました。興味がありましたら、是非ご一読下さい。
 
縄文人の神様 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9l1FdLSl4yE
2015/06/18 - アップロード元: Cyanpon 2525
縄文人の自然神の信仰の対象遺構 玖珠 玉井神社だった。 玉井神社の湧き出る神水も涸れることも無く湧き出ていた。
 
アイヌ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/アイヌ
アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびカムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた民族。
母語アイヌ語
アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。
文字を持たない民族であったが、生業の毛皮や海産物などをもって、アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島
これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。

1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、
当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった
。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。
 
◆「ゴールデンカムイ」で興味を持った人へ |アイヌってこんな人たちでした ...
https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/galaxy025
2018/04/09
マンガ(春からはアニメも)「ゴールデンカムイ」で、最近なにかと話題のアイヌ民族
かっこいい衣装をまとった彼らは、過去にどういう生活をしていたのでしょうか。日常会話で使えるアイヌ語つき!
 
ヤングジャンプで連載中のマンガ、今春からアニメ化もされる作品『ゴールデンカムイ』!
 
アニメ「ゴールデンカムイ」公式サイト
http://www.kamuy-anime.com/
冒険・歴史・文化・狩猟グルメ・GAG&LOVE和風闇鍋ウエスタン!
話題の極上エンターテイメントコミック、ついにアニメ化!!
 
アイヌの隠し財宝」を巡って、主人公・杉本や、土方歳三、陸軍など、様々な目論見を持つ集団が入り乱れての争奪戦!
……というのが大体のあらすじなんですが、舞台が北海道であり、そして何より、すごく詳細にアイヌ文化に触れているのです。
 
アイヌ文化めっちゃカッコエエ~!」
 
このマンガを読んだ誰もがそう思うはず。
知りたい! アイヌの人々ってどんな文化を持って、どんな生活してたの?
 
アイヌ
アイヌ語。人・男・父の意〕
主に北海道に居住している先住民族。かつてはサハリン(樺太)・千島列島・東北地方にも居住。
集落はコタンと呼ばれ,狩猟・漁労・採集を基本とする生活を営んでいたが,幕藩体制下での松前藩を中心とした
支配・搾取,明治政府の同化政策の下で伝来の生活形態や伝統文化は根底的に破壊された。
口承文芸としてはユーカラなどが口承された。
 
アイヌ民族の歴史 - 公益社団法人 北海道アイヌ協会
https://www.ainu-assn.or.jp/ainupeople/history.html
アイヌ民族とは・・ -どこに、いつから、どのように-
どこに
アイヌ民族は、おおよそ17世紀から19世紀において東北地方北部から北海道(蝦夷ヶ島)、サハリン(樺太)、千島列島に
及ぶ広い範囲をアイヌモシリ(人間の住む大地)として先住していました。
この時期の前後には、アイヌ民族がこの隣接地域に移動したり、
逆にその地域の他民族が移動し接触したことも認められております。
これら居住域はもとより、さらに広い範囲においてアイヌ語由来の地名が分布していることが実証されています。
 
いつから、どのように
https://www.ainu-assn.or.jp/ainupeople/files/hi_ainumoshiri.jpg
何時からアイヌ民族が存在し、どの様に生活してきたのか?
これら疑問については、アイヌの歴史(概説)の年表で知ることができます。
残念ながら、アイヌの歴史に関しては、一部の研究者の努力に頼るのみで、
多くの歴史資料や記録に基づく総合的な編纂がなされてはきませんでした。また、日本の歴史の中で、
アイヌ史の位置づけは、特別に曖昧なまま扱われています。将 来、自然人類学、考古学、歴史学文化人類学
さらには今まであまり研究が進んでいなかった法律学政治学などの学問領域の観点からもアイヌ学を構築し、
多面的な様相がさらに明らかになるよう、取り組んでいかなければなりません。

日本の公教育では、アイヌ民族の認識が教科書記述に端的に表れています。
19世紀当初から20世紀後半まで、日本の中央政権は、アイヌ民族に対し同化政策を押しつけました。
それでも明治期から第二次世界大戦敗戦前まで使用された国定教科書にはアイヌを「土人」と表し
(行政用語ではM11から「旧土人」)、基本的にはアイヌ先住民族との認識 の下で公教育を進めてきました。
戦後は、一転して国籍を持つ者「国民」としてだけで把握し、
その民族的属性やそれら集団に対する配慮を欠くこととなりました。
アイヌ民族については、戦後2~30年、行政サイドでは無施策のまま過ぎ、追って生活格差是正の一環としての施策が現在
まで続いています。わずか20年程前まで、ほとんどの日本国民がアイヌ民族は同化されたあるいはその誤ちにも気づかない、「単一民族国家」幻想を蔓延していました。

和人とアイヌの不幸な過去の歴史を乗り越え、それぞれの民族の歴史や文化を相互に尊重する多文化主義の実践や
人種主義の根絶は、人権思想を根付かせ発展させようとする国連システムの取り組みに符合します。
日本のアイヌ民族についてもこれからの取り組みが大切です。
 
アイヌ語アーカイブ 祖父母の物語を子どもたちへ - アイヌ民族博物館
http://www.ainu-museum.or.jp/takar/about/
アイヌは、日本国に暮らす民族の一つで、東北地方の北部から
北海道、千島列島(北方四島とその北の島々)、樺太(今のサハリン)といった地域に古くから暮らしてきました。
明治時代になって、おおぜいの和人(日本民族)が入植(植民地に入って生活をはじめる ...
 
◆トリンギット - Wikiwand
http://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%83%E3%83%88
トリンキット(Tlingit ['tlɪŋkɪt])はインディアン部族の一つで、アラスカ、カナダの先住民族
正しい発音はクリンキット['klɪŋkɪt], もしくはクリンギット['klɪŋgɪt]。
もともとはフリンキット(Lingít)[ɬɪŋkɪt]と呼ばれていた。
彼らの自称は「リンギット」で、「人間」という意味。
 
◆1900年代に撮影された、アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)の写真
https://news.biglobe.ne.jp/trend/0121/kpa_170121_9652211496.html
1900年代に撮影された、アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)、
通称インディアンの肖像写真が海外サイトにて紹介され、話題となっている。
これらは現代の私たちから見ると単なる昔のポートレートに見える。
だが実は民族の記録写真のあり方に一石を投じた歴史的な作品なのだ。

 当時のアメリカではインディアンたちのネガティブな印象を与える情報が流布しており、
 彼らに偏見を抱いていた人々も大勢いた。
 彼らの誇り高い姿をとらえたこれらの写真は、野蛮で攻撃的な部族といった極端な偏見を改めるきっかけにもなった。

 白人との戦いや政策に翻弄され、滅亡が危ぶまれたインディアンの人々。
 彼らの本来の姿を後世に伝えようとした写真家たちの希少な記録がこちらだ。
  【インディアンへの関心と名刺写真の流行】
http://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/f/b/fb4138c0.jpg
 
◆【動画】法隆寺のサムライ像とシュメールの神の像
http://rimaroom.jugem.jp/?eid=1958
1928R 法隆寺のETとシュメールの神々
https://youtu.be/5Ri5pVFg2ZU
2016/07/14 に公開
1928+1850+425
Sumerian Deities in Horyu-ji Temple, Nara, Japan
法隆寺にいたシュメールの神々(RAM族)
+シュメールから法隆寺へやってきた、爬虫類型エイリアン
爬虫類型エイリアン(善玉か悪玉か)Reptile-shaped Aliens
Reptile-shaped Aliens, found in Sumer and Nara, Japan
シュメールと日本で見つかった、爬虫類型エイリアン
 
◆奈良・法隆寺に宇宙人が実在した?!法隆寺に実在している「爬虫類の像」の謎とは?
http://ur0.link/K242
奈良・法隆寺に宇宙人が実在した?!法隆寺に実在している「爬虫類の像」の謎とは?
寅でも獅子でも竜でもなく・・爬虫類?宇宙人?
法隆寺の謎のひとつをご紹介します!
 
法隆寺に伝わる半獣人な塑像
法隆寺西院伽藍の五重塔には、「五重塔初層塑像群」と呼ばれるものがあり、うち80体が国宝に指定されています。
この「五重塔初層塑像群」の中の1つに、釈迦の入滅や遺骨(仏舎利)を分骨するところなどが描かれている塑像があります。
これらは東西南北の4面に分かれていますが、その中の、涅槃の場面を表した北面に、謎の像があるんです。
 
法隆寺の謎の塑像
まず、謎の塑像の1つに「釈迦の入滅を悲しむ弟子たちの塑像」があります。
この塑像は、何かを表現しているのですが、この塑像の中の人物を良く見てみると・・格好は人間なのですが、なんと!驚くことに頭が動物の像が3体も実在しているんです!
https://法隆寺-御朱印.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/wp-content/uploads/2016/03/2016y03m18d_160248499.jpg
小学館「原色日本の美術館2法隆寺」では、これらを「侍者像:馬頭形、鼠頭形、鳥頭形」としています。

しかし、ただでさえ見づらい塑像群なので、肉眼では確認できないかもしれません。
 
しかし、なぜ、法隆寺に頭が動物の塑像があるのか?
あなたが今、「馬」「鼠」「鳥」と聞いて、何を連想しますか?
ちなみに、上記の3つの動物はすべて「十二支のひとつ」です。
つまり、これらの像は、薬師如来の護衛である「十二神将(じゅうにしんしょう)」とも考えられています。
十二神将は12の方角を守る神様ですが、それらは十二支や、1日を12に分けた時間と結びつけて考えられたり、表されたりすることもあるんです。
しかし、そうなると疑問点が浮上しています。
そう・・、動物の頭の像が3体しかないということです。
つまり、これらの像も、法隆寺に残された謎という遺物うちの1つであると云われています。
ちなみに日本でも、かつては方角や時間を「子丑寅・・」で表していましたをご存知でしょうか?
筆者は大学入試の時に、必死で覚え込んだのを記憶しています。
 
奈良・法隆寺の謎の塑像は爬虫類人
https://法隆寺-御朱印.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/wp-content/uploads/2016/03/2016y03m18d_160703159.jpg
上述の「動物頭の像」という解釈には疑問を投げ掛ける人も少なくありません。
つまり、古代の法隆寺を含めた、日本の文化で動物を頭にした像がなぜ造られたのでしょうか?
これに関しては、未だに謎のままだとされています。
中には、この像の姿を見て「どう見ても爬虫類人(獣人)か宇宙人・エイリアンでしょ!?」などという意見を持つ人も実在しています。
「尖った口先」に「つり上がった目」では無理もありません。
そして、問題となってくるのが、古代の時代で、どこからこのような着想を得たのか?と、いうことです。
 
法隆寺の謎の塑像の造立に至った「着想の根源」
一説には、本当に古代には宇宙人が地球上に存在していて、その宇宙人の基地がこの法隆寺の地下に実在し、その宇宙人から着想を得て、謎の塑像を造立することができた・・などという説も囁かれているようです。
尚、この像の作者は不明とされていますが、この謎の像と似たようなものが、世界の他に国々でも目撃されています。
イラクのシュメール文明の遺跡に残る像やレリーフに「馬頭形侍者像」に似たものが出土している。
エジプトにも爬虫類の頭を持つ神様がいる
実際にこの像に似た頭蓋骨が出土している
・・などといった記録もあります。
他には以下↓のような意見も飛び交っているようです。
 
爬虫類人あるいは宇宙人(エイリアン)は、古代から世界各地に存在していた」
「日本において爬虫類に似た宇宙人が法隆寺を拠点にしていた」
「これは宇宙人が来た証」
「共存?支配?」
・・などとという話まで出ています。
はたして、あなたはどう見ますか?
 
◆正座
http://www.inter-link.jp/back_no/zipang/zipang_36.html
世界中で日常的に正座をする国は日本だけだと言われている。
中国では唐の時代までは正座の習慣があったというが、西方からアラビア人など異民族の文化が入ってくると
椅子の生活が定着し、宋代(10世紀頃)には正座の習慣がなくなってしまった。
韓国では昔から胡座(あぐら)か立て膝を立てて座るのが一般的で、正座は罪人に強いる姿勢だったことも影響してか、
ほとんど正座をする人はいない。
あとはイスラムの国々で神へ祈るときに正座をすることがあるが、それは座るための習慣ではない。
そもそも正座の姿勢は極限まで膝を屈することになるのだから、決して楽なかたちとはいえない。
大森貝塚を発見し日本考古学の歴史を拓いたと言われるE・S・モースはその著書『日本人の住まい』の中で、
「端坐の姿勢は外国人にとっては相当に苦痛で、それに慣れるためにはただ練習する以外にはない」と、
正座の辛さをこぼしている。
正座は私たち日本人には普通のことだが、当時の外国人にとっては中国の纏足に匹敵するくらいの奇習に映っていたらしい。
それではなぜ、そんな肉体的に負担のかかる正座が日本だけで受けいれられてきたのだろうか。
 
正座のかたちはいつから
縄文時代の遺跡からきちんと正座をした土偶が発掘されていることから、昔から正座は日本の風習であったという説もある。
しかし、正座はもともと日本人の正しい座り方として定着していたわけではなかったようだ。
戦国時代までは、胡座、立て膝、横座りなどが貴賤を問わず一般的な座り方だと言われ、
それぞれが正しい座り方として普及していた。
茶の湯の世界でさえ、最初は胡座で客をもてなしていたという。
やがて茶道が精神性を重んじ狭い空間にこだわるようになると、
そうした空間におさまるもっともコンパクトな座り方として正座が行なわれるようになったと言われている。
また、江戸時代に参勤交代の大名たちに恭順の姿勢を取らせるために、将軍の前では正座を強いるようになったことが、
やがて武家社会全般に定着していったという説もある。
正座が、自己を厳しく律する武士像を具現した姿勢として広がっていたというのだ。
江戸時代に描かれた寺子屋の絵を見ると、子どもたちはきちんと正座をしている。
そこには、正しい姿勢によって正しい精神を養うという考えが見てとれる。
足がしびれるのを我慢することも精神を養うことにつながったのだ。
正座には、仏教の坐禅のような精神鍛錬の意味もあったのかもしれない。
 
受け継がれていく正座という文化
さて、最近は畳の生活が少なくなったことから正座をする機会は減ってきている。
また、脚のかたちが悪くなるからと敬遠される傾向にもあるという。
しかし実際に正座をしてみて感じることだが、意外とカラダを安定させてくれる座り方なのではないかとも思えてくる。
正座をすることで背筋力が鍛えられて、自然に姿勢が良くなるのだという。
正座によるストレッチ効果である。
普段の生活で正座をすることは少なくなったとはいえ、冠婚葬祭、とくに葬祭の席では正座を強いられる場面は
依然として多い。
しかし、正座を苦手とする人も、正座をすることで気が引き締まり、心が落ち着くと感じることは多いと思う。
正座という日本独特の文化はこれからも受け継がれていくことだろう。

 
◆日本正座協会
http://www.seiza.net/work/easyseiza/16.html
正座という座り方が正式な座法となったのは室町期に小笠原流武家礼式として確立してからで、
一般に定着したのは江戸期に入ってから。

正座を生活習慣として定着させていたのは実は中国です。
もともと中国人は日本の和服と同じように肌着に襦袢をつけてゆったりとした着物をまとっていました。
ただ日本のように褌という下着がなかったため、どうしても胡座では都合が悪かったと感じます。
中国でも褌という下着が穿かれるようになったのは相当時代が下ってからで、褌という下着はもともとポリネシア系の文化なのです。
という訳で中国では男性も女性も座る場合は、まず跪(ヒザマ)ずき、そして正座をしていました。
正座という座法は唐の時代までづっと続いていましたが、
徽宗皇帝の時代あたりから胡人やアラビア人などがどんどん中国にやってくると家には土間できて椅子の生活がだんだんと定着し、宋代には正座の習慣がなくなってしまいます。

日本に中国の正座の座法が入ってきたのは飛鳥時代くらいだと思われますが、
正座が座法として定着していたとは考えられません。身分や職業で皆違っていたことでしょう。
庶民は貫頭衣で胡座など、貴族や従者は袴かズボンをはいてますからやはり胡座でしょうか。
僧侶が現在のように裳をつけるようになるのは結構後の時代になりますから、もしかしたら仏教僧だけは正座の座法だったのかもしれません。
鎌倉時代でも公家も武家もやはり胡座ですし、日本の文化は褌や袴など胡座にむいた衣服でしたから胡座が中心になってます。
室町期に武家礼式が確立してきてようやく正座がでてきますが、普段は板敷きの床に円座(ワロウダ)でも敷いて胡座という生活です。
正座が普段の生活に入ってくるのは、畳が普及してからでしょう。
畳など戦国期でもよほどの貴人の家でもふんだんには使われいません。
畳が普及してくるのは信長が大量に使い始め、秀吉もそれを継承したあたりからです。
畳の普及とともに、座法も胡座から正座の文化に自然に移っていったと考えてます。
武士は食ねど高楊枝などというように、どうも日本人の伝統的な精神基調は「やせ我慢!?」の文化。胡座でもすれば楽なのに、わざわざ正座をして精神を鍛錬する手段にも利用してきたわけです。

正座という習慣は本場は中国であったものが、中国では滅びてしまい、日本に残ったわけです。
 
◆正座は日本固有文化じゃなかった
http://tacchan.hatenablog.com/entry/2014/05/01/104319
正座とは、世界でも類い稀な、日本独自の座り方だと思い込んでる人が、いるかもしれない。
でも実は昔から、正座は日本以外でも、よくある座り方なんじゃないか、そう思ったので調べてみますた。
 
wikipediaを見るとこうある。
正座(せいざ、元の用字は正坐)は、正しい姿勢で座ること、およびその座り方、
特に膝を揃えて畳んだ座法(屈膝座法)である。部屋では履物を脱ぎ、畳に座る日本人の伝統的な生活文化の一形態である。
正座とは、元々、神道での神、仏教で仏像を拝む場合や、征夷大将軍にひれ伏す場合にのみとられた姿勢であった。
日常の座法は武士、女性、茶人などでも胡座(あぐら)、立膝で座る事が普通であった。
 
正座 - Wikipedia
 
ウィキペディアのこの一文をを読んだところでは、どう見ても「正座は日本固有である」と
決めつけたい人が書いてる印象で満載ですな。
正座は江戸時代頃に普及したとか。日本人の認識だと正座は日本固有という固定観念で、それ以上の思考に発展しないとか。
 
でも歴史的には正座同様の座り方をした国や民族は、かなりあったらしい。。
これもwikipediaに書いてあるので、見てみると、
・中国では、春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年)に正座が正式な座り方だったことがある。
朝鮮半島では正座でお辞儀をするのが最上級の感謝の挨拶とされている。
これは葬式や結婚式など特別の場で行われる作法とされているので、日常生活で正座をする人は少数である。
・ティピー(ネイティブアメリカン)では女子は正座をするのが望ましい作法とされる。
イースター島のモアイは裸で正座している。
ということだそう。
2等身のモアイが正座しているのは知らなかったです。足があったんですね。まあ俺も足は長くないほうですけど。
 
で、私見としては、正座の本来の起源はエジプトなんじゃないかと考えてたんですが。
確かめるべく、エジプトの遺跡のレリーフ(浮き彫り)に正座を求めて、検索してみると、こんなのがあった。
紀元前1270年のネフェルティティ墓の壁面のレリーフにも見られる、
マアト(翼のある女神/ma'at)は、正座した姿で描かれることが多い。
 
◆日本人必修!「正座」に関するすごい雑学
https://matome.naver.jp/odai/2148294131129584901
日本人には馴染み深いスタイル「正座」。
日本独特の伝統作法とも言われています。
海外における正座事情や、足が痺れにくい正座の方法など、日本人なら知っておきたい正座に関する雑学です。
 
◆腰から上だけに関していえば、正座は非常に身体に優しい座り方です。
ただし、足がしびれる、ひざや足首に負荷がかかるなどのマイナス面もあります。
出典
正座という新しい伝統について (正座の起源) | 和魂美才
http://www.yamato556.jp/nihonron/seiza_1/
身近な座り方である反面、足がすぐに痺れる、かしこまりすぎる、
といったような印象を持っている方も多いのではないでしょうか。
 
座り方で私達が大事にすべき事は?
どんな座り方であれ「背骨がガチガチに固まってない=自然なS字曲線を維持」
という点は時代や洋の東西を問わず普遍的に重要な部分でしょう。
とくに「美しく見せる必要性がある場合」や「健康面に気をつかう場合」は。逆に言うと、
そこさえきちんとしていれば、細かいことは状況に応じて臨機応変でよいと思います。
 
◆日本人が知らない「正座」にまつわる驚きの歴史
もとは外国文化との差別化だった  2016.11.26
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50264
普及のナゾにふたつの理由
和室での法事や会食、茶事など様々な場面で必要な「正座」。椅子とテーブルに慣れた現代人にとっては、
畳の間での「正しい姿勢」と言われても、苦手な人が大半だろう。
だが、ご安心あれ。日本人が古来より正座していたかというと、それは大間違い。
礼儀作法の上で正座が定着したのは、ほんの100年ほど前のことだったという。
そもそも両膝を折って腰を下ろす座り方は、
かつて「かしこまる」と呼ばれ、庶民が貴人の前で平伏する際など限られた場面での姿勢であった。
時代劇などで見られる、奉行所のお白洲に呼ばれた町人の姿を想像してもらうといいだろう。
逆に、今では行儀が悪いイメージの強い「あぐら」は、
かつて「安座」と呼ばれ、江戸時代以前には大名の正しい座り方として認められていた。
正座のイメージがありがちな茶道においても、千利休は、あぐらをかいて茶を点てていたのである。
では何故、「かしこまる」が正しい座り方として採用されたのか。
実は、明治新政府が、国民に等しく修身教育を施すにあたり、外国文化との対比を強調しようと、
日本人としてあるべき正しい座り方として正座を選んだという。
さらにこの同時期に起こった二つの事柄が、正座の普及と関係している。
 
アイヌの歴史と文化 2-6 人の一生 - アイヌ民族博物館
http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/rekishibunka/2_6issyo.html
地方によって違いはありますが、だいたい初潮を迎える頃から、口の周りや手の甲にいれずみを入れたといわれます。
 
口と手に入れ墨をした成人女性(蝦夷島奇観)
http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/rekishibunka/img/041.jpg
結婚
 小さい頃から許嫁(いいなずけ)が決められる場合もあったようですが、当人同士が納得できないときは、
 婚約を解消できたといわれます。好きな異性ができると、男性は女性用小刀などの道具類、
 女性は手甲などの衣服類をプレゼントし、受け取った側は、それらを身につけることで交際の意思表示をしたといわれます。