◆文化 言葉


◆雪村庵 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/雪村庵
雪村庵(せっそんあん)は、郡山市西田町大田字雪村(三春町に隣接)にある庵。室町時代の画僧雪村が晩年、当地を活動の処としたとされる。
歴史
建築年不詳。現存する建物は、後世に再建されたもの。
1658年(明暦4年)、三春藩主秋田氏の菩提寺の僧侶一元紹碩が当時の古老から雪村が晩年に隠棲していた地であることを聞き、庵の扁額に書き残している。また、三春藩主秋田盛季に願い出て、雪村の死後に荒れ果てていた庵を再建し、桜梅山 雪村庵と名づけた。
なお、当地周辺は元々「李田」(すすもだ)という地名だったが、後に「雪村」と改称されている。
1968年(昭和43年)、本尊とされていた木造大日如来坐像(仏師乗円の作と考えられる)が県指定重要有形文化財に指定される。しかし、1980年(昭和55年)に盗難に遭う。
境内
正面にはそれぞれ、「雪村桜」、「雪村梅」と名づけられたシダレザクラと梅の古木があり、桜の名所の一つに数えられている。また、庵の左手にある小道は裏の竹林の中にある、雪村の墓と伝えられる花崗岩の大きな石に通じている。
 
◆◆雪村庵 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/
雪村(せっそん、永正元年(1504年)? - 天正17年(1589年)頃)は、室町時代後期・戦国時代の水墨画家、僧侶。雪村周継とも称す。
略歴
常陸国部垂(茨城県常陸大宮市)に佐竹氏の一族の長男として生まれる。
近くの下村田には雪村が筆を洗ったと伝えられる池がある。
本来なら長男として家を継ぐはずだが、雪村の父は他の妻の子を跡取りとしたため(『本朝画史』)、幼くして夢窓疎石を開山とする正宗寺に入って修行する。雪村周継の「周」の文字は夢窓派の通字で、雪村も同系統の僧の下で禅僧の修行を積んだと考えられる。
同寺は佐竹氏の菩提寺で絵画をはじめとした多くの寺宝を所蔵し、これらの作品は雪村の画風にも影響を与えたという。
 
◆切子 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/切子
切子(切り子)(きりこ、キリコ).
・立方体の角を落としたもの。
・紙等で作られる仏前用・お盆向けの灯籠(灯篭)のこと。切子灯籠。
・ガラス加工・工芸の工法であるカットグラスの和名。切子ガラス。江戸切子、薩摩切子など。
・金工・鉄工・プラスチック・金型製作などの旋盤加工時に発生する、切れ・削りクズ・粉のこと。 → スクラップ#ダライ粉を参照。
 
◆薩摩切子 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/薩摩切子
薩摩切子(さつまきりこ)は、薩摩藩が幕末から明治初頭にかけて生産したガラス細工・カットグラス(切子)である。薩摩ガラス・薩摩ビードロとも呼ばれた。現在は復刻生産されている。
 
◆「薩摩切子」斉彬が育て島津興業が復刻した美
http://fujimaki-select.com/ext/artisan/015.html
江戸時代、篤姫の養父であった島津家28代当主・島津斉彬が育てた美術工芸品「薩摩切子」。一時は幻となっていたその匠の技が、島津家の末裔である島津興業によって復元したのが1985年。再び動き出した歴史の中で、伝統を継承しつつさらなる進化、発展を遂げる「島津薩摩切子」が描く色彩美とは――。
 
江戸切子 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸切子
江戸切子(えどきりこ)とは江戸末期に江戸(現在の東京)で始まったカットグラス工法のガラス工芸・ガラス細工である。伝統工芸に認定されているガラス工芸品・地域ブランドの一つ。
 
江戸切子協同組合 | 江戸切子公式 |
https://www.edokiriko.or.jp/
江戸切子協同組合は、江戸切子をはじめとするガラス加工業に従事する事業所・職人の振興と発展をはかり、美しさと品質を追求したガラス工芸品として江戸切子の伝統を長く継承、育むことを目的としている協同組合です。江戸切子公式。
 
Q
薩摩切子との違いは何ですか
A
どちらもカットグラス(切子)技法ですが、歴史的な背景を受けて表現が異なりなります。
 
江戸切子
天保5年(1834)江戸で始まる。途絶えず現在に続いております。素材は透明なガラスと色を薄く被せたも色被(いろきせ)ガラス。カットは深く鮮明で正確であり仕上がりがはっきりとして華やかである。
 
「薩摩切子」
幕末に薩摩藩で始まり、明治初めには途絶えてしまいました。現在は昭和後期に始まった復刻復元生産によるものです。主に色被ガラスを用いたカットガラス。厚い素材に切子をしており、色被せガラスへの加工部分が「ぼかし」と呼ばれるグラデーションの仕上がりとなる。
 
Q
切子の色はどうやってつけますか
A
表面の色は、色被せ(いろぎせ)といって色を成形時に付けて頂いています。 二重構造になっていて、外側は厚みの薄い色ガラス、内側に透明などの厚みのあるガラスとなっています。このため後から塗っている物ではありません。ガラスの色は、ルリはコバルト・濃い赤は銅・明るい赤は金など溶かしている金属に由来します。
 
Q
ソーダガラス製とクリスタルガラス製の違いはなんですか
A
ソーダガラスとは主原料の珪砂にソーダ灰と石灰等を混ぜて作られたガラスで、軽くて丈夫という特徴があります。一方、クリスタルガラスは酸化鉛等が混ぜられたガラスで、屈折率が高く、透き通るような透明感があり、 重厚感のある重みも特徴のひとつです。ただ、キズがつきやすいので取扱に注意が必要です。
 
◆集成館事業 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/集成館事業
集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)は、薩摩藩第28代当主島津斉彬によって起こされた日本最初の洋式産業群の総称をさす。
時代背景
島津斉彬が集成館事業を開始するに至るまでの時代背景として、その当時、中国でのアヘン戦争(1840~1842年)などでイギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国がアジア各地で植民地化を進めていた事が挙げられる。
アヘン戦争については、魏源が著した海国図志(1843年初版)などの書籍が日本に輸入されていたため、日本でもその実情はかなり正確に知られていた。東洋一の大国であった清国が敗戦して植民地化されていった事に、日本人はかなりの衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感を強く感じていた。
そのアヘン戦争前後から、当時薩摩藩支配下にあった琉球へ異国船が度々来航するようになっており、それらは逐一琉球から薩摩藩へ報告されていた。島津斉彬が藩主に就任する1851年には、しきりに異国船が琉球に来航するようになっていた。
藩政改革とお由羅騒動
そうした時代状況の中で、藩主就任前の島津斉彬は、日本の植民地化を憂慮して軍事力強化の重要性を唱え、富国強兵、殖産興業をスローガンに藩政改革を主張していたが、藩内では資金が掛かり過ぎることが問題視され、財政再建論と富国強兵論で藩論が二分される状況となって、藩主交替の際のお家騒動(お由羅騒動)に発展した。
斉彬の藩主就任と集成館事業
このお家騒動を経て1851年に薩摩藩主に就任した島津斉彬は、藩主に就任するや、それまで長年温めていた集成館事業の計画に着手し、現在の鹿児島市磯地区を中心として近代洋式工場群の建設に取り掛かった。
特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。この当時佐賀藩など日本各地で近代工業化が進められていたが、島津斉彬の集成館事業は軍事力の増大だけではなく、殖産興業の分野まで広がっている点が他藩と一線を画す。
1858年に斉彬が亡くなった後、財政問題などから集成館事業は一時縮小されたが、1863年の薩英戦争においてイギリス海軍と交戦した薩摩藩は、集成館事業の重要性を改めて認識し、集成館機械工場(現尚古集成館)、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造するなど日本の近代化に貢献した。
主な事業
    雲行丸(日本初となる蒸気船の建造)
産業遺産
鹿児島市内における3資産の配置図
集成館事業のうち、製鉄・造船に関わる機械工場、反射炉跡など3資産が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録されている。
    旧集成館
        旧集成館反射炉跡(仙巌園内)
        旧集成館機械工場(尚古集成館)
        旧鹿児島紡績所技師館(鹿児島異人館
    寺山炭窯跡
    関吉の疎水溝
関連項目
    尚古集成館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E5%8F%A4%E9%9B%86%E6%88%90%E9%A4%A8
尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)は、鹿児島県鹿児島市吉野町にある博物館である。薩摩藩第28代当主島津斉彬によって始められた集成館事業の一環として、1923年5月22日に開館した。現在は島津興業によって運営され、島津家に関する史料や薩摩切子、薩摩焼などを展示する。本館は1865年に建てられたもので、国の重要文化財である。仙巌園に隣接する。日本で初めてアーチを採用した石造洋風建築物。
2015年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成する「旧集成館」の機械工場として世界遺産に登録されている。
 
◆ウランガラス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウランガラス
ウランガラス(Uranium glass)とは、極微量のウランを着色材として加えたガラスである。美しい蛍光緑色を呈する。ヨーロッパが発祥で、食器やさまざまな日常雑貨が作成された。
 
長谷川利行 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/長谷川利行
長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7月9日? - 昭和15年(1940年)10月12日)は京都府出身の洋画家、歌人。名の読みは「りこう」とも。
1891年に京都府京都市山科区で伏見警察署の警察官であった長谷川利其(としその)、テルの五人兄弟の三男として生まれる。家族構成や出生日はいくつかの説があり、はっきりとしていない。和歌山県有田郡広村(現広川町)の私立耐久中学校(現県立耐久高校)に入学し、文学を志し同人誌などを発行するも、1909年に中学校を中退し、当時は歌や詩に興味を持ち、1919年には「長谷川木葦集」という私家版の歌集を発行している。1921年に上京するも、しばらくは大衆小説などを書いていた。

いつ頃に絵を始めたか不明であるが、独学ながら非常に速筆で、1~2時間ほどでれっきとした油絵を仕上げてしまう。自身の「アトリエ」を持たず、「思い立ったら絵を描く」スタンスを生涯続けた。帝展や二科展に落選を重ね、1923年の第1回新光洋画会展にて「田端変電所」が初入選する。
 
瑛九 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/瑛九
瑛九(えいきゅう、1911年4月28日 - 1960年3月10日)は、日本の画家、版画家、写真家。前衛的な作品、抽象的な作品(抽象絵画)が多い。本名、杉田秀夫。QEiとも自署した。浦和画家として有名。
 
◆飛脚 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/飛脚
飛脚(ひきゃく)は、信書や金銭、為替、貨物などを輸送する職業またはその職に従事する人のことである。佐川急便の商標でもある。単純な使い走りとは違い、事業が組織化されているのが特徴である。
 
◆大昔の通信手段・飛脚は速かったの? 東京から大阪まで飛脚になって手紙を届ける
https://time-space.kddi.com/kddi-now/tsushin-chikara/20170710/2034
2017/07/10
飛脚というものがある。江戸時代頃から活躍した、今でいう郵便屋さんのような存在だ。
新幹線も飛行機もない時代に東京ー大阪間を最短3日で手紙を届けていたという。
棒の先に箱をくくりつけた、妙に前傾姿勢な飛脚の絵などは誰もが見たことがあるのではないだろうか。
ただ、果たして本当にそんなに早く手紙を届けることが可能だったのだろうか?
東京から大阪まで、たったの3日間で到着するなんて考えられない。絶対にキツいはずだ。
 
◆江戸~大坂間の飛脚の料金は最高で140万円だった!? - 江戸時代
http://www.edojidai.info/kurashi/hikyaku.html
江戸時代には郵便物を運ぶのは飛脚の仕事でしたが、江戸から大坂までの速達料金が驚きの金額だったのです。当時の郵便事情をお話します。
 
◆竜切手 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/竜切手
竜切手(りゅうきって)とは日本で最初に発行された郵便切手である。1871年明治4年)旧暦3月1日に発行されたが、この日は現在の太陽暦では4月20日であるため、この日を含む一週間を現在では切手趣味週間と指定している。「竜切手」という呼称は、図案が雷紋と七宝の輪郭文様の中に向かい合った竜が描かれていることにちなんでいる。
 
◆切手 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/切手
切手(きって)は、郵便事業で行われる諸々のサービスの、料金前納を証明する証紙である。郵便物に貼って差し出されることが多いため、郵便切手とも呼称する。また宣伝媒体として用いられたり、古銭・紙幣や骨董品と同様に趣味の収集対象(切手収集、郵便趣味)となったりする。
日本における切手
日本で最初に発行された切手は、1871年明治4年)4月20日に発行された竜文切手であり、48文、100文、200文、500文の計4種である。この当時はまだ通貨改革が行われていなかったため、江戸時代の通貨による額面表示がなされていた。翌年の1872年(明治5年)には「銭」の単位に変更された竜銭切手が発行(ちなみに同切手は日本初の目打付切手である)された。なお、前者2つを併せて竜切手と呼称する。1883年(明治16年)には「円」の単位が表記された切手が発行された。
 
◆[PDF]日本最初の切手 竜文切手 - 郵政博物館
http://www.postalmuseum.jp/publication/description/docs/kaisetsu_ryumon.pdf
日本最初の切手に郵便切手が発行されのは、
 
◆日本で1番最初の切手はいつ発行されたの? | ゆうびん.jp
https://yu-bin.jp/kitte/trivia/04/
切手にまつわるちょっと気になる雑学や知識をご紹介します。
明治4(1871)年4月に発行された『竜文切手』が最初です。この切手は図柄に太政官札(日本で初めての全国通用の政府紙幣)で用いたのと同じ竜をあしらってあったので『竜文切手』と呼ばれています。
 
◆郵便 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/郵便
郵便(ゆうびん)とは、郵便物を送達する(送り届ける)制度のことである。また、郵便物のこと。
日本の郵便の歴史

日本において通信制度が現れたのは、伝馬などを利用して公用通信に供した「大化の駅制」とされる。この駅制は盛衰を続け、鎌倉時代に至って飛脚の出現となり、戦国時代には大名の書状送付に飛脚が利用されるなどを経て、徳川時代(江戸時代)に幕府の整備により武家や町人が利用できる飛脚屋・飛脚問屋などの制度が発達した。その後明治時代に入り、飛脚は郵便に移行してゆく。

1858年の日米修好通商条約により、締結国が開港地に領事館を設置した。各国は公文書を蒸気船や軍艦に運搬させたが、自国民の手紙も便乗させた。いわゆる領事館郵便である。やがて中には業容を拡大し、独立の局舎を設けて専任の従業員を抱えたものもある。そのような在日外国郵便局を、英米仏三国が横浜・兵庫・長崎にもっていた。在日局は各国の郵便ルールに従っていた。切手販売、手紙引受、押印という基本的な機能は十分に果した。横浜の居留地ではサザーランド切手が使われた。

1870年(明治3年)5月、駅逓権正となった前島密は、太政官に郵便制度の創設を建議した。しかし、同年6月に前島が上野大蔵大丞に差添し渡英したことから、郵便制度創設の建議は、後任の駅逓権正・杉浦譲と各地の官史に引き継がれた。

1871年明治4年)1月24日に「書状ヲ出ス人ノ心得」及び「郵便賃銭切手高並代銭表」、「郵便規則表」等、郵便に関する一連の太政官布告が公布され、4月20日(旧暦3月1日)、東京〜京都〜大阪間に現行の制度の礎となる郵便制度が確立され、東京・京都・大阪に最初の郵便役所が創設された。布告に用いられた「郵便」の名称は、前島の案に準じたものであった。
 
前島密日本郵政
https://www.japanpost.jp/corporate/founder/
前島密(1835年から1919年)
越後国(現在の新潟県)に生まれ。享年84歳。「縁の下の力持ちになることを厭うな。人のためによかれと願う心を常に持てよ」という信条どおり、近代化が進む日本でまさしく陰ながらより便利でより快適な暮らしの方法を提案し続けた。肖像画は、明治末ころのもの。向かって右えりに勲二等瑞宝章のバッジ、左えりには当時の貴族院議員記章が描かれています。

明治のはじめ、日本に郵便の仕組みを築いた前島密(まえじまひそか)。「日本近代郵便の父」と呼ばれ、現在でも1円切手の肖像として有名です。

前島密は郵便の創業者としてその名を不動のものとしていますが、郵便関連のほか、江戸遷都、国字の改良、海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険など、その功績は多岐にわたります。
 
九谷焼 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/九谷焼
九谷焼(くたにやき)は、石川県南部の金沢市小松市加賀市能美市で生産される色絵の磁器である。
古九谷
「古九谷」と呼ばれる磁器は、青、緑、黄などの濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、様式から祥瑞手(しょんずいで)、五彩手、青手などに分類されている。祥瑞手は、赤の輪郭線を用い、赤、黄、緑などの明るい色調で文様を描いたもの。五彩手は黒の輪郭線を用い、青、黄、緑、紫などの濃色で文様を描いたものである。青手は、色使いは五彩手と似るが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶした様式のものである。
 
志野焼 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/志野焼
志野焼(しのやき)は、美濃焼の一種で、美濃(岐阜県)にて安土桃山時代に焼かれた白釉を使った焼物。赤志野や鼠志野などいくつかの種類があり、同じく美濃焼の一種である瀬戸黒とともに重要無形文化財に指定されている技法や、岐阜県重要無形文化財に指定されている技法がある。
 
◆椿椿山 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/椿椿山
椿 椿山(つばき ちんざん、享和元年6月4日(1801年7月14日) - 嘉永7年7月13日(1854年8月6日))は江戸時代後期の日本の文人画家である。江戸小石川天神に生まれる。主に花鳥画、人物画を得意とした。 名は弼(たすく)。字は篤甫(とくほ)、通称を忠太、亮太。号は椿山の他に、琢華堂(たくげどう)、休庵、四休庵(しきゅうあん)、春松軒、碧蔭山房(へきいんさんぼう)、羅渓、琢華道人(たくかどうじん)。
 
◆洛中洛外図小屏風
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/ua/publication/pdf/ml_02_02.pdf
【洛中洛外図小屏風らくちゅうらくがいずこびょうぶ). 3. 洛中洛因小屏風風. 成立 江戸前期. 大きさ たて106cm, 横281cm. せき). きりはく. 「たなび. せん. 本図は、右隻に三十三間堂から知恩院に至る東山一帯を、左. 隻に金閣寺から松尾大社に至る北山・西山を配 ...
 
レオナール・フジタ (藤田嗣治) | ポーラ美術館
http://www.polamuseum.or.jp/collection/highlights4/
レオナール・フジタ (藤田嗣治) 《姉妹》. 1950年 油彩/カンヴァス 60.8 x 45.3 cm、85.5 x 69.0 cm(額寸). 展示中 フジタ自身の手による八角形の額縁に納められた本作品は、画家が戦後パリに戻ってまもなく描いたものです。画面の大半を占めるベッドの上 ...
 
藤田嗣治
http://www2.plala.or.jp/Donna/foujita.htm
藤田嗣治レオナール・フジタ
Leonard(Tsuguharu) Foujita(1886-1968)

私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。
私は世界に日本人として生きたいと願う。
それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う。
 
晩年フランス国籍を得て、さらにキリスト教の洗礼を受けてレオナール・フジタレオナルド・ダ・ヴィンチの名をとった)となった。あえてニ国籍を残さずフランスのみとし、「嗣治」の日本名を捨て去ったことには、日本との訣別の意味があっただろうことは想像に難く ...
 
上村松園 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/上村松園
上村 松園(うえむら しょうえん、1875年(明治8年)4月23日 - 1949年(昭和24年)8月27日)は、日本画家。 本名は上村 津禰(うえむら つね、「禰」は「示」ヘンに「爾」)、常子(つねこ)と名乗っていたこともある。 明治の京都下京に生まれ育ち、女性の目を通して「美人画」を描いた。1948年(昭和23年)女性として初めて文化勲章を受章。

子の上村松篁、孫の上村淳之と三代続く日本画家である。
 
◆古代中国の青銅器|開運!なんでも鑑定団テレビ東京
http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20101214/03.html
2010/12/14
世界的なお宝。
今から3400年くらい前の殷王朝の青銅器に間違いない。「斝(か)」といって酒を入れたもの。
三脚二柱一把手という基本形。
火の上に置いて酒を温めた。
依頼品はやや肉薄の銅質で、全体を埋め尽くす饕餮文(とうてつもん)は ...
 
聖徳太子絵伝 - e国宝
http://www.emuseum.jp/detail/100205/000/000
国宝
指定名称:綾本著色聖徳太子絵伝
秦致貞筆
はたのちてい
10面
綾本著色
189.2~190.5×137.2~148.2
平安時代・延久元年(1069)
東京国立博物館
N-1
 聖徳太子絵伝は、奈良時代に始まった太子への信仰をもとに、太子の事績を描いたもの。この絵は、もと法隆寺東院の絵殿を飾っていた障子絵で、江戸時代、屏風に改装され、さらに近年10面のパネル装にされた。記録によって、延久1年(1069)2月から5月にかけて、摂津国(現在の大阪府)の絵師、秦致貞が描いたことがわかる。当初の綾地や彩色が残る部分は少ないが、上代の大画面説話画の形式を十分に伝えている。
 画面は、太子の生涯の60近い事蹟を選び、それぞれに、銘文を記した色紙形が貼ってある。右方に飛鳥地方、中央に大きく斑鳩宮(いかるがのみや)での場面、左端に四天王寺、難波、中国を描いた壮大な構図に、太子の事蹟と背景の山水とが融けあっている。
 現存する聖徳太子絵伝では、本絵伝が最古で最大の遺品である。
 
◆『六角堂』 紫雲山 頂法寺聖徳太子創建、いけばな発祥の地 - 池坊
https://www.ikenobo.jp/rokkakudo/
京都の街中に佇むお寺、六角堂のホームページです。紫雲山頂法寺『六角堂』は、聖徳太子創建の寺であり、いけばな池坊発祥の地でもあります。西国三十三所と洛陽三十三所それぞれの巡礼地にもなっており、六角堂には日々たくさんの参拝者が訪れます。
 
京都府にある紫雲山頂法寺(西国三十三所第18番札所)の別名。
 
頂法寺 (紫雲山頂法寺から転送)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%82%E6%B3%95%E5%AF%BA
頂法寺(ちょうほうじ)は、京都市中京区堂之前町にある天台宗系単立の仏教寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音秘仏)。西国三十三所第十八番札所。正式の寺号は頂法寺(山号を冠して紫雲山頂法寺)であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。
 
◆炉縁(ろぶち)
http://verdure.tyanoyu.net/robuchi.html
http://verdure.tyanoyu.net/img/robuti.jpg
炉縁(ろぶち)とは、炉の炉壇の上にかける木の枠のことです。
炉縁は大別して木地縁と塗縁があります。
木地の炉縁は、一般的に小間に用いられます。
初期の炉縁は、木地の「沢栗(さわぐり)」で、利休時代の名工として、「久以(きゅうい)」、「長以(ちょうい)」、「半入(はんにゅう)」などの名が知られており、それぞれに刻印を用いています。
当時の木地縁は、使うたびに洗ったので「洗い縁」とも呼ばれ、水に強い沢栗材が用いられました。
他に、黒柿、縞柿、桑、桜、紅梅、松、桐、杉などさまざまで、北山丸太や皮付丸太等の丸太物や、鉄刀木(たがやさん)、花梨などの唐木、社寺の古材を仕立てることあります。
木以外に竹を使用することもあり、角竹を使ったもの、木地に胡麻竹や煤竹を貼りつけたものもあります。
炉縁に漆を塗った「塗縁」は、無地と蒔絵にわかれ、塗縁は一般的に広間(四畳半以上)で使用し、桧材真塗を正式としますが、あらゆる漆加工が使用されています。
塗には、真塗、溜塗、掻合塗、朱塗、青漆、布摺、春慶、荒目などがあります。
蒔絵も、好みによって各種の文様が施されます。
炉縁の寸法は、外法で一尺四寸四方、高さ二寸二分五厘、天端一寸二分五厘、面取二分五厘を原則とし、田舎間の場合一尺三寸四方、また好みにより違いがあります。

『南方録』に「草庵の炉は、初は炉の寸法定まらず、紹鴎、利休、くれぐれ相談の上、大台子の法を以て万事をやつし用て、向炉一尺四寸に定めらるるなり」 「紹鴎、四畳半に炉ありといへども、いまだ炉の広狭定らず、釜の大小に随て切しなり。休公と相談ありて、二畳敷出来、向炉隅切に台子のカネを取て、一尺四寸の炉を始られ、その後四畳半にも、いなか間四畳半には一尺三寸、京畳には一尺四寸なり」とあり、千利休が永禄12年(1560)の堺の茶会で用いています。
『茶道要録』に「春は洗縁を用ゆ、陽気〓(ほこり)を挙る故に見て悪し、故に用、客毎に洗ひて用べし。沢栗の目通を以て作る。冬は塗縁を用ゆ、洗縁の古びたるを掻合に漆塗て用。是侘なり。又不侘人は真塗を用。是は檜地也。径一尺四寸四方、幅一寸一分、高さ二寸也」とあります。
『茶道筌蹄』に「炉縁 炉の寸法、往古は一尺五寸六分もあれども紹鴎より一尺四寸に定む、利休も此方を用ゆ、今は此寸法也、六尺三寸の畳の九つ割二つ分也」「真塗 利休形、檜木地、台目四畳半にもちゆ」「木地 利休形、沢栗也、当時ははだつをもちゆ、台目向切時により四畳半にもちひても不苦」「掻合 昔のわび人は木地をかき合にぬり用たれども原叟西脇氏の席にて初めて好れしより形のものとなる、木地さは栗也、四畳半台目に限る」「丸太 利休妙喜庵炉に好む、すぎの丸太面を皮にて残すこと六分しめて一尺三寸四分也、炉壇は七分也」「松の木 啐啄斎好、溜すりうるし、何の色にても用ゆ」「利休堂 仙叟このみ、すぎ木地あらめ黒掻合せ左さし、利休堂は二畳中台目也」「高台寺 このみなし、太閤御用にて高台寺にありしを浪花の板屋へ伝来す、今津田氏所持、黒菊桐蒔絵あり」とあります。
『茶道古事談』に「炉緑、利休時代迄は四畳半の炉には真の塗縁、四畳半よりせまき座敷には栗のあらひ縁を用ひて、冬春の分ちなりし由、然に中比より冬はぬり縁、春は洗ひ縁といひ、又一説には片口・面桶もあたらしく、木地を用れは、口切には洗ひ縁、春に及んてはぬり縁を用ゆともいふ、一概には諭しかたしとなん 」「炉縁の作者は久以と云もの、利休時代の上手にて、今に称し用ゆ、代々同名なり」「秀吉公御好みの炉ふちに、真塗に金粉にて菊桐の御紋をちらし書にせし縁もありしとなん」「紹鴎の比まては炉の広さ一尺五寸七歩半四方なりしか、余りひろ過て見苦しとて紹鴎一尺四寸四方に切初しより、今に其寸法を用ゆとなん」「伏見の御城出来せしうち、山里の御すきや、四役半と二畳(半)とは一切の木みな沈香にて作らせられ、炉ふち迄も外の木は用ひさりしとなん」とあります。
『茶式湖月抄』に「炉縁の事 沢栗、利休。桑、遠州。丸太(杉はかり)、宗旦。あらめ、仙叟(玄室方利休堂に有)。洗縁、好不知(木地縁ずいぶん古方よし)。四畳半以上は塗縁を用(木地新敷は四畳半以上広座敷に春大ふくなどに用ひてよし)。右以下は木地縁を用、冬春の差別なし」「利休炉縁 大さ一尺四寸。高さ二寸二分 よはし。厚一寸二分。めん巾三分半。うら入は四分に二分。一寸八りん」とあります。
 
◆茶道具の種類 - 炉縁(ろぶち)とは | 茶道具辞典
http://chadougu.net/robuchi/
2014/05/30
炉縁(ろぶち)とは
さりげない「おもてなしの心」を表す炉縁

炉縁とは、炉の上にはめ込む枠物で、茶道具の一種です。
炉縁の役割は畳に炉の火気が伝わらないようにはめ込まれているものですが、炉周りの装飾としての役割もあります。
どの茶道具もそうですが、茶道具一つ一つには道具としての役割があり、場を引き立たせ、茶道という世界を作り上げて客人をもてなそうとする装飾としての役割があります。
炉縁というほんの些細な枠の部分にさえ、茶道の心意気を感じる事が出来るのです。
炉縁を観賞するのはもちろんの事、一つ一つの茶道具によって作り上げられている茶の湯の世界も感じてみましょう。
骨董品でも丈夫な作りの炉縁

骨董品というと脆くなっていたり、傷んでいたりと劣化が気になる事が多いのですが、炉縁であれば、例え木地タイプ骨董品であっても安心して購入する事が出来る為、骨董品初心者にもお勧めです。
もともと、炉縁は使うたびに洗われていましたので、洗う事を前提とした丈夫な素材選びと作りになっているのです。
木地の炉縁にはたくさんの種類があり、黒柿に桑、桜に紅梅に松、桐や杉、さらに唐木や社寺の古材木など様々な仕立てがありますが、どれも水で洗えます。
例え骨董品であっても、飾る為ではなく使う為に購入出来るとして、炉縁はとても人気があるのです。
炉縁は木地よりも塗縁の方が扱い難い

炉縁には木地タイプのものだけではなく、塗縁のものもたくさんあります。
塗縁タイプの炉縁には無地と蒔絵が施されているものと二種類あり、塗には春慶や荒目、溜塗に掻合塗、さらに朱塗に真塗と、木地と同様に塗縁にもたくさんの種類があります。
塗縁タイプの炉縁は木地よりも扱いが難しく、紫外線や乾燥によって劣化が進みますので、きちんと保管しておかなければ使い物にならなくなってしまいます。
特に骨董品の塗縁を購入した場合は、保管と扱いには十分注意しておきましょう。
 
◆粟生屋源右衛門(あおや げんえもん)
http://wwr7.ucom.ne.jp/and-taku2629/kutani-guide-aoyagenuemon.html
粟生屋源右衛門(あおや げんえもん、寛政9年~文久3年(1797~1863))は、若杉窯において本多貞吉の指導を受け、「青九谷」と呼ばれる九谷焼の様式を研究し続け、古九谷の再興に大いに貢献をした陶工であった。
 
◆粟生屋源右衛門 あおやげんえもん
http://turuta.jp/story/archives/561
九谷焼の陶工。
加賀国小松(石川県小松市)の陶工粟生屋源兵衛の子。
陶法を若杉窯の本多貞吉に学び、1822年(文政五)に小松で製陶を始めました。
また江沼郡吉田屋窯および松山窯の主工でありました。
天保(1830-44)の末、能美郡蓮代寺(小松市蓮代寺町)および吉竹村(同吉竹町)に窯を開いましました。
また別に一種の楽陶をつくりその巧妙な技術は独特でありました。
作品の種類は硯箱・炉縁・机・長板・箪笥・組重などで、これらはちょうど木工品のような趣があります。
この種の作品のほとんどは銘がありませんが、まれに父の陶号である「東郊」の押印を用いたものもあります。
また物理を応用した自動噴水器・水時計などの作品があります。
1863年文久三)没、七十三歳。
門下から松屋菊三郎・北市屋平吉・板屋甚三郎・九谷庄三らが出て近代九谷第一の名工といわれました。
その子栄五郎は青木の姓を名乗り、父の様式を学んで楽焼を巧みにしました。
なお源右衛門の生まれた年を1789年(寛政元)、没年を1858年(安政五)とする説もあります。
『大成陶誌』『九谷陶磁史』
 
アンディ・ウォーホル - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/アンディ・ウォーホル
アンディ・ウォーホルAndy Warhol、1928年8月6日 - 1987年2月22日)はアメリカの画家・版画家・芸術家でポップアートの旗手。銀髪のカツラをトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けたマルチ・アーティスト。本名はアンドリュー・ウォーホラ(Andrew Warhola)。
 
シルクスクリーン - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/シルクスクリーン
シルクスクリーン(Screen printing)は、孔版画の技法の一種であり、インクが通過する穴とインクが通過しないところを作ることで版画の版を製版し、印刷する技法である。シルクを使うかどうかにかかわらず、孔版画の技法のうちメッシュを使うものは全て、この項目で説明する。
 
◆高麗青磁 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/高麗青磁
高麗青磁(こうらいせいじ)は、朝鮮半島の高麗時代(918年 - 1391年)に製作された青磁釉を施した磁器である。
 
◆高麗青磁 - 世界史の窓
https://www.y-history.net/appendix/wh0403-031_4.html
朝鮮の高麗で発達した陶磁器。
 こうらいせいじ。高麗の代表的な工芸品である青磁は11世紀頃に宋の青磁の影響で製造が始まり、13世紀の元の支配下の高麗で発達した。青磁の青は朝鮮の空の青さを写したものだとも言われ、その独特な美しさは他に例を見ない。それは高麗の陶工が、原料の土、うわぐすり、焼き方を工夫して生み出したものである。前期のものは模様がほとんど無いが、後期になると象嵌で風物を描いたものが主流になる。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.112> → 陶磁器

参考 柳宗悦の朝鮮陶磁器論
 朝鮮の民芸に深い愛着をもっていた柳宗悦の文に次のような高麗青磁李朝の陶磁器を比較した一文がある。

    (引用)朝鮮ものは大体から言って二つに分れる。高麗のものと、李朝のものと。前者の美しさは早くも宋の時代に支那でも認めたものである。青磁の秘色はまたとない麗しさがある。技術の方を見る人々は、誰もこの時代の青磁を一番だという。それに細かな象嵌の手法や美しい鉄絵等が進んできて、その歴史を賑やかに飾った。高麗のものは繊細である。線の微妙さは讐えようもない。それほどに進んだものだと言える。だがこれにつれて弱みが加わってくる。遂には果しない情まで誘う。国の弱さや無常の教えがここまで導いたのだと思える。高麗の品は女性的である。
     だがこれに比べると李朝のものは幅(ひろ)さかおる。時代が変ると共に教えも仏教から儒教にうつる。曲線が直線へと転じてくる。際立った対立である。種類の変化は李朝に来るとずっと多い。ある人はこの時期で、焼物が下落したかの様にいう。繊細な技巧だけを見る人々にこの見方が多い。だが美しさの方から見ればそう簡単には言えない。<柳宗悦『朝鮮とその芸術』所収「朝鮮陶磁号序」1932>
 
菱田春草 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/菱田春草
菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 - 1911年(明治44年)9月16日)は、明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。明治以降の日本画家としては一番重要文化財が多く指定されており、最も人気の日本画家の一人。
 
横山大観 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/横山大観
横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年11月2日(明治元年9月18日) - 1958年(昭和33年)2月26日)は、日本の美術家、日本画家。常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。本名、横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。
 
◆下村観山 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/下村観山
下村 観山(しもむら かんざん、1873年明治6年)4月10日 - 1930年(昭和5年)5月10日)は、明治 - 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。
1873年明治6年)、和歌山県和歌山市に生まれる。8歳のとき東京へ移住。最初狩野芳崖に、その没後は芳崖の親友である橋本雅邦に師事する。東京美術学校(現・東京藝術大学)を第一期生として卒業後、同校で教えていたが、1898年に岡倉覚三(天心)が野に下ったときに行動を共にし横山大観菱田春草とともに日本美術院の創設に参加した。
1906年、天心が日本美術院茨城県北部の五浦海岸へ移した際、大観、春草、木村武山とともに同地へ移住し画業を深めた。1917年6月11日、帝室技芸員となる。
1930年 死去。
 
岡倉天心 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/岡倉天心
岡倉 天心(おかくら てんしん、1863年2月14日(文久2年12月26日) - 1913年(大正2年)9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉覚三(かくぞう)。幼名は岡倉角蔵。
横浜の本町5丁目(現・本町1丁目、横浜開港記念会館付近)に生まれる。福井藩出身の武家
 
◆朦朧体 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/朦朧体
朦朧体(もうろうたい)または、縹緲体(ひょうびょうたい)は、明治時代に確立された没線彩画の描絵手法。
名称の由来
日本画の新しい表現の試みであったが、明瞭な輪郭をもたないなど理解されず評論家からは悪意をもって呼ばれた。
岡倉覚三(天心)の指導の下、横山大観菱田春草等によって試みられた没線描法である。洋画の外光派に影響され、東洋画の伝統的な線描技法を用いず、色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表した。絵の具をつけず水で濡らしただけの水刷毛を用いて画絹を湿らせ、そこに絵の具を置き、空刷毛で広げる技法、すべての絵の具に胡粉を混ぜて使う技法、東洋画の伝統である余白を残さず、画絹を色彩で埋め尽くす手法などが用いられた[1]。
影響
西洋絵画の浪漫主義的風潮を背景とした造形と正面から対峙し、日本画に近代化と革新をもたらしその影響は大きい。
 
◆没骨/朦朧体 | 現代美術用語辞典ver.2.0 - Artscape
http://artscape.jp/artword/index.php/%E6%B2%A1%E9%AA%A8%EF%BC%8F%E6%9C%A6%E6%9C%A7%E4%BD%93
没骨(もっこつ)は東洋絵画の技法のひとつで、筆線でくくった輪郭を用いずに、モチーフの形態を直接に彩色または水墨で描くもの。 朦朧体は明治期の日本で試行された日本画の画風で、空気や光線などを表現するために、輪郭線を用いずにぼかしを伴う色面描写を用いるもの。
没骨は中国北宋花鳥画家・徐崇嗣の作品を特徴づける技法として評されたのが語の初出とされる。この技法は、当時の宮廷画院の主流であった鈎勒(モチーフの形態の輪郭を筆線でくくる技法)による花鳥画とは対照的な、新しい造形表現として成功を収めた。没骨はその後、常州花鳥画と呼ばれる地方流派、藻魚図や蓮池水禽図などで用いられるようになる。明末には、六朝の張僧繇や唐の楊昇が没骨の着色山水を描いていたとする認識に基づき、倣古作として没骨の着色山水が描かれた。清初には惲寿平が、没骨を駆使して自然主義的な花鳥画の制作を行なった。 一方で朦朧体は、岡倉天心の指導のもと、横山大観菱田春草日本美術院の画家たちが、西洋画風の大気描写を日本画の新しい表現として実現させるために始めた実験。こうした試みは、混濁した色彩による曖昧模糊とした画風や、当時は日本画を東洋絵画たらしめる前提と認識されていた墨線を否定したことが批判され、日本では非難と揶揄も込めて「朦朧体」「縹緲体(ひょうびょうたい)」などと評された。しかし大観らは、琳派などの古美術研究や、欧米滞在中の西洋絵画学習などを契機に、水彩的表現をとることで朦朧体の色彩混濁を解決し、その後は筆線よりも色彩を重視する方向性を洗練させ、明治末頃には琳派的な新画風を創出していった。朦朧体の典型的な作品には、横山大観《菜の葉》(1900)、菱田春草王昭君》(1902)などがある。

著者: 太田智己
 
◆せきひん【赤貧】
    何一つ所有物がないほどの、ひどい貧乏。
     「―洗うがごとし」