◆百人一首


百人一首 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/百人一首
百人一首(ひゃくにんいっしゅ、ひゃくにんしゅ)
100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。
中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首おぐら-ひゃくにんいっしゅ)は歌がるたとして
広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。
本記事では主に、この小倉百人一首について解説する。
 
・『百人一首』の歌と歌人たち
https://ja.wikipedia.org/wiki/百人一首#『百人一首』の歌と歌人たち
百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。
この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である
。又、( )内は現代の読み方である。
 
・3.2 かるた
https://ja.wikipedia.org/wiki/百人一首#かるた
3.2.1 散らし取り(お散らし)
古くから行われた遊びかたのひとつで、あまり競争意識ははたらかない。以下のようなルールに従う。
3.2.2 逆さまかるた
本来の百人一首は上記である散らし取りが一般的であるが、この逆さまかるたは読み札(絵札)が取り札になり、
下の句札(取り札)が読み札となるもの。
このゲームの目的は「下の句を聞いて上の句を知る」ための訓練ゲームでもある。
もちろん、多くの札を取った人が勝ちとなるが、取り札である読み札には漢字が混じるため視覚からくる思わぬ錯覚なども
加わって、思わぬところで「お手付き」があるのもこのゲームの特徴である。
3.2.3 源平合戦
源平とは源氏と平氏のこと。二チームに分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。
1.0散らし取り同様に絵札と字札を分け、読み手を一人選ぶ。
2.百枚の字札を五十枚ずつに分け、それぞれのチームに渡す。両チームはそれを3段に整列して並べる。
3.散らし取り同様に読まれた首の字札を取る。この時、相手のチームの札を取った時は、
 自分のチームの札を一枚相手チームに渡す。これを「送り札」という。
4.先に札のなくなったチームの勝ちとなる。
北海道で行われる下の句かるた大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。
3.2.4 リレーかるた
源平合戦と同じルールだが、取る人が順次交代する点で異なる。
交代のタイミングは、自分のチームの札を相手に取られた時、10枚読まれた時など。
3.2.5 競技かるた
詳細は「競技かるた」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B6%E6%8A%80%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%9F
社団法人全日本かるた協会の定めたルールのもとに行われる本格的な競技。
毎年1月の上旬に滋賀県大津市にある近江神宮名人戦・クイーン戦が開催される。名人戦は男子の日本一決定戦であり、
クイーン戦は女子の日本一決定戦である。NHK BSで毎年生中継される。
また、7月下旬には全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会が行われている。
そのほか、全国各地で色々な大会が開催されている。取り札を半分の五十枚しか用いないことが特徴である
(ただし読み札は百首すべて読まれる)。
3.2.6 坊主めくり
上記の遊び方とは異なり、坊主めくりをする際には首は読まない。使用する札は読み札のみで、取り札は使用しない。百枚の絵札を裏返して場におき、各参加者がそれを一枚ずつ取って表に向けていくことでゲームが進む。多くのローカルルールが存在するが、多くで共通しているルールは以下のようなものである。
・男性が描かれた札を引いた場合は、そのまま自分の手札とする。
・坊主(「ハゲ」と呼ぶこともまれにある)の描かれた札を引いた場合には、引いた人の手元の札を全て山札の横に置く。
・女性の札(姫)を引いた場合には、引いた人がそれまでに山札の横に置かれていた札を全てもらう。
・蝉丸の札を引いた場合、引いた人は一回休み。
裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了。このとき最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。
様々な地方ルール(ローカルルール)があり、例えば次のようなものが知られている。
・山札の横に札が無い場合に、姫を引いた場合はもう1枚札をめくることができる。
天皇札(台座に縞模様がある札)を引いた際には、数枚引ける。
天皇を引いた際には、山札とその横の札を除き、すべての札が引いた人の手札となる。
・段に人が乗っている札を引いた際、もう一枚めくることができる。
・蝉丸が出た場合、全員の札を供託に置く。
・蝉丸も坊主扱い。
坊主めくりは歌を暗記していない子供も参加できる遊びとして考案されたとみられるが、
その発祥時期と考案者は明らかでない。
江戸時代の文献には現われないことから、明治以降に成立したものと考えられている
3.2.7 青冠
詳細は「色冠」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E5%86%A0
坊主めくりと同様、首は読まず、読み札のみを使用し取り札は使用しない。
4人で行い、全員に配られた札を向かい合った二人が協力して札をなくしていく。
書かれた絵柄で、青冠(あおかんむり)、縦烏帽子、横烏帽子、矢五郎、坊主、姫となる。
ただし、天智天皇持統天皇は特殊で、天智天皇は全ての札に勝ち、また持統天皇天智天皇以外に勝つ。
絵の書いた人、時期によって、100枚のうちの絵柄の構成が変わるゲームである。

1.100枚の札を4人に全て配る。
2.最初の人を決めそのひとが右隣の人に対して1枚手札から出す。
3.出された人は、同じ絵柄の札か、
 持統天皇天智天皇の札を出して受ける(天智天皇はどの札も受けられないし、持統天皇天智天皇のみで受けられる)。
4.受けることが出来た場合、受けた人が、右隣に1枚手札から出す。以下同様に続けていく。
5.受けることが出来なかった場合、何も出せずに右隣の人に順番が移る(最初に出した人の向かい側の人が出す)。
この手順を続け、最初に手札を無くした人のいるペアの勝ち。これを何回か行い勝敗を決める。
 
・異種百人一首
小倉百人一首の影響を受けて後世に作られた百人一首。以下に代表的なものを挙げる。
・『新百人一首
足利義尚撰。小倉百人一首に採られなかった歌人の作を選定しているが、91番「従二位成忠女」は小倉の54番・儀同三司母(高階貴子)と同一人物というミスが起こっている。また、79首目の歌は恵子内親王の歌となっているが、実際には徽子女王の歌である。その他、『百人秀歌』に見える権中納言国信も64番に入首(百人秀歌とは別の歌)している。
・『武家百人一首
同名の物が複数ある。
1.17世紀半ばの成立と見られている。平安時代から室町時代にかけての武人による和歌を採録。寛文6年(1666年)刊。
 榊原式部大輔忠次の撰とされるが、本自体にはその旨の記述はなく、後に尾崎雅嘉が『群書一覧』で比定したものである。
 また寛文12年(1672年)、菱川師宣の挿絵、和歌は東月南周の筆で再刊された。菱川師宣の署名した絵入り本の最初とされ、
 絵師菱川吉兵衛と署名されている。
2.安政5年(1858年)刊。賞月堂主人の著。1.のものと比べると、23人が別人の歌に置き換えられている。
3明治42年(1909年)刊。富田良穂撰。神代から幕末までの武将・大名・夫人等の和歌を採録
・『新撰武家百人一首
18世紀成立。伊達吉村撰。室町時代から江戸中期にかけての武将・大名による和歌を採録している。
・『後撰百人一首
19世紀初頭に成立。序文によれば二条良基の撰、中院関白顕実の補作とするが、後者の存在が疑わしいため成立年代は未定である。勅撰集だけでなく、『続詞花集』などの私撰集からも採録しているのが特徴。
・『源氏百人一首
天保10年(1839年)刊。黒沢翁満編。『源氏物語』に登場する人物の和歌を採録しているが、その数は123人。肖像を入れ、人物略伝、和歌の略注をのせる。和歌は松軒由靖、絵は棔斉清福の筆。
・『英雄百人一首
天保15年(1844年)刊。緑亭川柳撰。神代から室町期までの武人の和歌を採録
・『烈女百人一首
弘化4年(1847年)刊。緑亭川柳撰。英雄百人一首に対し、著名な女性の和歌を採録
・『続英雄百人一首
嘉永2年(1849年)刊。緑亭川柳撰。英雄百人一首の続編で、平安から安土桃山時代までの武将・大名の和歌を採録
・『義烈百人一首
嘉永3年(1850年)刊。緑亭川柳撰。平安から江戸初期までの武将やその夫人等の和歌を採録
・『女百人一首
嘉永4年(1851年)成立。平安・鎌倉期の女流歌人の和歌を採録
・『義烈回天百首』
明治7年(1874年)刊。染崎延房編。幕末の志士等の和歌を採録
・『愛国百人一首
第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)に選定・発表された。恋歌の多い小倉百人一首に代わって「愛国の精神が表現された」名歌を採録
・『平成新選百人一首
平成14年(2002年)刊。小倉百人一首、愛国百人一首と重複しないように和歌を採録明成社から旧かなづかい、文藝春秋社から新かなづかいで出版という企画が巧妙。
・『今昔秀歌百撰』
平成24年(2012年)刊。小倉百人一首、愛国百人一首、平成新選百人一首と重複しないように和歌を、一選者一歌人で101首採録。当初は寄贈だけで、販売せず。
 
 
小倉百人一首・一覧(歌番号順) - 学ぶ・教える.COM
http://www.manabu-oshieru.com/hyakunin/contents.html
  小倉百人一首メインページ
 
  □   上の句索引 □   下の句索引 □   作者・歌人索引
 

 
  小倉百人一首の覚え方
 
  □   上の句→下の句 □   上の句の決まり字→全句 
 
  □   下の句→上の句 □   下の句の決まり字→全句 
 
  □   作者→歌 □   歌→作者
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1・秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ・天智天皇
2・春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山・持統天皇
3・あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む・柿本人麻呂
 
百人一首全首一覧と意味、解説。小倉百人一首人気和歌ランキングベスト20も!
https://shikinobi.com/hyakuninisshu
百人一首を用いて行う競技かるたの世界を描いた「ちはやふる」や、「うた恋い。」といった漫画が今、
若い世代を中心に人気となっています。
名探偵コナンの映画「から紅の恋歌」でも百人一首が描かれていましたね。
今再び注目を集める、百人一首
学生時代に勉強したり、お正月にかるたで遊んだ記憶がある方も多いのではないのでしょうか。
美しい日本語を感じることができる、奥深い百人一首の世界を覗いてみましょう。
 
小倉百人一首の全首を見る|小倉百人一首殿堂 時雨殿
https://www.shigureden.or.jp/about/database_02.html
藤原定家百人一首を編纂した小倉山の麓・嵐山で、百人一首の多様な世界を体感できるミュージアム
「京都・嵐山 小倉百人一首殿堂 時雨殿
 
小倉百人一首 基本の「き」
https://www.shigureden.or.jp/about/primer.html
・「き」小倉百人一首ってなに?
百人一首』とは、100人の歌人の歌を1人1首づつ選んだ歌集のこと。
平安時代末から鎌倉時代前期にかけて活躍した歌人藤原定家が選んだとされています。
江戸時代に絵入りの歌かるたが誕生すると庶民に広がり、現在では札を取る速さを競う「競技かるた」でもおなじみです。
100首の歌は、『古今和歌集』や『新古今和歌集』など天皇の命により編纂された勅撰和歌集の中から選ばれています。
・「ほ」藤原定家ってどんな人?
藤原定家平安時代末から鎌倉時代前期の歌人で、住居と最終の官職名にちなんで京極黄門(黄門は中納言唐名)と
称されました。
百人一首』の他にも、『新古今和歌集』や『新勅撰和歌集』を選進。勅撰集に入った歌数は465首で第1位です。
また歌集に『拾遺愚草』があり、生涯に4,000首以上の和歌を詠じています。
また18歳から74歳までの56年間にわたって克明に記された日記『明月記』は、歴史書、科学的記録としても
資料的価値が高く貴重です。
「ん」かるたってどうやってできたの?
「かるた」はポルトガル語で「カード」の意味。
ポルトガルの宣教師と一緒にやってきた船乗りたちが日本に持ち込んだものです。
このかるたに日本の伝統的な遊びである「貝覆・歌貝」が融合して、現在のかるたの原型が生まれたとされています。
百人一首の歌かるたは江戸時代の初期に誕生しました。
当初は貴族や大名の嫁入り道具の1つとして作られましたが、
のちに木版刷りの安価なかるたが登場し庶民の生活の中に広がっていきました。
 
百人一首おもしろハンドブック
https://www.shigureden.or.jp/about/handbook.html
百人一首が大好きな小倉くんと時雨ちゃんが百人一首の世界をやさしく案内するよ。
https://www.shigureden.or.jp/source/img/about/img_handbook3.png
時雨殿」に行く前に、チェックしてみよう。
時雨殿に来てくれた小学生・中学生にはこの冊子を無料でプレゼントしているよ。
PDFの容量が重いため、ウェブから直接印刷を実行した場合に、正しく印刷されないことがあります。
一度ご自身のパソコンにPDFをダウンロード頂いてから、印刷を実行くださいますようお願いいたします。
【印刷手順】
 (1) 「百人一首おもしろハンドブック ダウンロード」ボタンを右クリック
 (2) 「名前をつけてリンク先を保存」を選択する
 (3) ご自身のパソコンの任意の場所に保存する
 (4) 保存したPDFを開き、印刷する
 
◆ちゅうたい【紐帯】
(ひもや帯のように)二つのものを結びつけて、つながりを持たせる、大切なもの。
 
◆貝覆【かいおおい】
平安時代末期に始まった室内遊戯。貝合(かいあわせ)とは別のものだが,後に混同された。
ハマグリの貝殻を2組に分け,一方を地貝(じがい)と称して,数人で囲んだ座の中央に円形に並べ,
他方を出貝(だしがい)と称し,1個ずつ地貝の中央に置き,この出貝に合う地貝を多く取った者が勝ちとなる。
1対の地貝,出貝の内側には同じ絵が描かれる。室町時代末期になると,
この貝を入れる貝桶(かいおけ)を嫁入道具とすることが流行した。
歌がるたは江戸時代の初期に貝覆が変化してできたとされる。
→関連項目歌貝|かるた(骨牌)
 
◆貝合わせ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9D%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B
貝合わせ(かいあわせ)は、平安時代から伝わる日本の遊び。本来の貝合わせは、合わせものの一つとして貝殻の色合いや
形の美しさ、珍しさを競ったり、その貝を題材にした歌を詠んでその優劣を競い合ったりする貴族たちの遊びであった。
一方、地貝と合致する出貝を探し出す遊戯としての貝合わせは元来貝覆いと呼ばれていたが、殻を合わせる所作から後に
混同されて、同じく貝合わせと呼ばれるようになった。
貝覆いの遊び方
貝覆いの貝は女性の掌中に握るのに適した大きさの、伊勢国二見産ハマグリを用いた。殻の内面には紙を貼り、
源氏などの絵をかき、金箔などで極彩色に仕上げ、左右一対の殻には同じ絵を描いた。
貝は耳の短い方を前にして、頂を自分の方に向けると、右が出し貝すなわち陰、左が地貝すなわち陽であり、
これを天地に象(かたど)り、男女に付会し、別々の貝桶におさめ、天文暦学等に関連せしめて、遊びの方法が定められた。
天にかたどった地貝の伏せ方は、まず中央に12ヶ月にかたどって12個を伏せ、
7曜日にかたどってしだいに7個をくわえ、1年の日数にかたどった360個のハマグリ殻を過不足無く9列にならべる。
9列であるのは昔の天文学で天を九重と考えたからであるという。
すなわち口が12、次が19とある。この19という数は暦学上重要な数であり陽暦も陰暦も19箇年で一循環するという。
 
◆貝覆い(かいおおい)
http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/dg_kaioi.htm
 奈良平安時代に遊ばれた遊び。貝合わせから発達したものと思われ、 貝覆い自体が誤って貝合わせと言われることもある。
 同じものを探す現代の神経衰弱のようなもので、二枚貝を二つに分け、 一方を持ってもう一方を探し当てる。
 二枚貝を2つに割ると、真っすぐ縦に割れる訳ではなく、合うものは一つしかないためにこの遊びが成立するわけである。
・詳貝覆いの歴史
 貝覆いは平安時代の複数の文献にみられる。いつ頃生まれたのかはわからないが、平安時代には存在して居たと考えられる。
 ただ遊び方については江戸時代の文献にならないと記述が登場せず、その遊び方が平安時代の遊び方である証拠はない
・詳貝覆いの遊び方
1.貝を360個用意する。これは1年の日数に因んでいる。
 一つの貝を2枚に分け、一方を地貝、もう一方を出し貝と言う。地貝と出し貝に分け、貝桶と呼ばれる容器に収納される。
2.地貝を丸く並べる。
 10~12個で円を作った後、その外側に16個程度で2周目、 その周囲に3周目、と5,6周の同心円を作る。
・詳以上で準備完了である。
4.貝桶から出し貝を一つ取り出す。
5.地貝を一つ選び、出し貝に合わせて2つの貝を比べる。
6.合っていなければ、両方の貝を元に戻す。 合っていれば、それらを取って自分の前に置き、さらに続けることができる。
・詳「貝合わせ」について
 近年、「貝覆い」は「貝合わせ」と呼ばれることが多くなっている。
 上述したように、貝覆いは2枚の貝を合わせる遊びであるから貝合わせと呼ばれることはやむを得ないことなのだが、
 「貝合わせ」と言う遊びは、元々別な遊びとして存在しているので問題なのである。
 本来の貝合わせは「合わせもの」の一種である。「合わせもの」とは、同じ種類のものを比べるものである。
 例えば「歌合わせ」は歌を詠んで、優劣を比べるものである。 「貝合わせ」は貝を持ち寄り、
 その美しさなどを比べ合うものであった。また、貝に沿えて和歌を出し、その歌の優劣を比べあったとも言われる。
 しかし、現在では2つを合わせる遊びが「貝合わせ」であると広く誤解されている。
・詳細は拙論「貝合わせと貝覆いについて」(大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要第9号)を読まれたい。
販売状況 貝覆いとしては販売されていない。貝合わせという名称で2個一組で売っていることが多い。
http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/p_kaioi1.jpg
http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/p_kaioi2.jpg
http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/p_kaioi3.jpg
 
◆日本の伝統ゲーム
http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/dentou_j0.htm
伝統ゲームの部屋(日本の伝承遊戯)
 1.盤を使う遊戯(Board Games)
 2.札を使う遊戯(Card Games)
 3.さいころを使う遊戯(Board Games)
 4.体を使う遊戯(Action Games)
 5.全身を使う運動遊戯(Sports Games)
 6.言葉に関する遊戯(Word Games)
 7.味覚,嗅覚に関する遊戯(Games of tasting and sniffing
 8.動物を使う遊戯(Games using Animals)
 9.籤(くじ)・当て物の遊戯(Lot and Lottery games)
 10.機械的な仕組みを有する遊戯(Mechanical games (non electrical))
 11.比べもの、合わせものの遊戯(Comparing Games)
 12.賭博遊戯(Gambling Games)
 13.子供の遊戯、児戯(Children's Games)
 14.その他の遊戯(Other Games)
 日本の伝統ゲームをまとめた『日本伝統ゲーム大観』を出しました。
 
http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/taikan2.jpg
ぜひお読み下さい。ご購入はこちらから。1,575円です。
伝統ゲームのイベントを開きませんか。 道具を持って伺い、講演、実演、指導をします。
子供会、レクリエーション、イベント、講座・セミナーなどにどうぞ。
 
◆歌貝【うたがい】
江戸時代に創案された歌がるたの一種。外来のかるたに由来する天正かるたが江戸時代に庶民の賭博用として
流行したのを受け,有職家・故実家らの歌がるたを別格とする考えから作られた。
歌がるたの源流である貝覆(かいおおい)に似せて将棋の駒形とし,名称も〈かるた〉を用いないようにしたといわれる。
遊び方も貝覆に準じ,一方に和歌の上の句,他方に下の句を書いて出貝,地貝と名づけ,地貝を並べ,
出貝を合わせて,多く取ることを競った。
→関連項目貝合
 
◆類聚歌合  るいじゅうたあわせ
平安時代中期~後期に成った歌合の集成。 10巻本と 20巻本がある。
 10巻本は藤原頼通が中心となって編。天喜4 (1056) 年~治暦4 (68) 年の間に成立。
巻一~巻三は内裏,仙洞,巻四,巻五は皇后,皇太后など,身分別に 46歌合を類聚。
これを受継ぎ,30年以上の年月と 20人近い執筆者を動員して行われたのが嘉保 (94~96) 頃より始った 20巻本である。
3期にわたり,第1期として 10巻約 120の歌合を集めたらしいが,堀河天皇崩御により中断。第2期には修正増補して
 15~16巻になったと想定され,さらに第3期保安1 (1120) 年頃には同時代の歌合も収めることにより数がふえ,
 大治1 (26) 年頃には 20巻にいたった。
結局,身分別に約 200の歌合を集めた大資料となり,10巻本と 20巻本を合せると現存歌合の祖本はほぼ完全に知られる。
 
◆ものあわせ【物合】
左方,右方に分かれ,たがいに物を出し合って優劣を競い,判者(はんじや)が勝敗の審判を行い,
その総計によって左右いずれかの勝負を決める遊戯。
物合は歌合,相撲(すまい),競馬(くらべうま),賭射(のりゆみ)などとともに〈競べもの〉の
一種であるが,歌合,詩合などをも含む広範囲に及ぶ各種の合わせものを一括していうことも多い。
平安時代に宮廷貴族社会を中心に行われ,一般にも普及し後世に及ぶ。
清少納言は《枕草子》の〈うれしきもの〉の条に〈物合,なにくれといどむことに勝ちたる,
いかでかはうれしからざらむ〉と記している。
 
◆のりゆみ【賭射】
射礼(じやらい)の翌日の正月18日におこなう宮廷行事。
賭弓とも記す。賭は賞を賭(か)けること。
淳和天皇の824年(天長1)を文献上の初見とする。左右近衛府で荒手結(てつがい),
真手結と称する下稽古を9日,11日,13日などにおこなう。
当日,天皇は弓場殿に出御し,近衛,兵衛が分かれて射る。
近衛10人,兵衛7人が充てられる。左右近衛の場合,1番ごとに左右各1人ずつ出て,10番勝負する。勝負は1番ごとに3度射つ。
 
◆ゆば‐どの【弓場殿/弓庭殿】
天皇が射技を見るために弓場に面して設けられた御殿。ゆみばどの。いばどの。
平安京内裏校書殿(きょうしょでん)の異称。また、その東庇(ひがしびさし)の北二間。
 
◆した‐げいこ【下稽古】
1 本番に備えて、前もって練習しておくこと。また、その稽古。前稽古。
2 芸事などの稽古に行く前に、自分で予習しておくこと。
 
◆じゃらい【射礼】
正月17日,建礼門前において行う弓の技を試みる行事。大射ともいう。
親王以下,五位以上,六衛府の者が集合し,天皇は豊楽院で観覧する。
まず五位以上が,次いで衛府の射手が射つ。鉦鼓をならし,的中は音で知らせ,優秀な者に賞をたまわる。
670年(天智9)より恒例となる。これに先立ち,15日に兵部省で〈兵部手結(てつがい)〉と称し予行し,射手を選出する。
当日遅れた者は射遺(いのこし)と称し,翌日行う。手結【山中 裕】
 
◆のりゆみ【賭射】
射礼(じやらい)の翌日の正月18日におこなう宮廷行事。賭弓とも記す。賭は賞を賭(か)けること。
淳和天皇の824年(天長1)を文献上の初見とする。
右近衛府で荒手結(てつがい),真手結と称する下稽古を9日,11日,13日などにおこなう。
当日,天皇は弓場殿に出御し,近衛,兵衛が分かれて射る。近衛10人,兵衛7人が充てられる。
左右近衛の場合,1番ごとに左右各1人ずつ出て,10番勝負する。勝負は1番ごとに3度射つ。
 
◆てつがい【手結】
射術を競う朝廷の年中行事である射礼(じやらい),賭射(のりゆみ),騎射(うまゆみ)の前に行う武芸演習をいう。
手は射手,結は番(つがう)(2人を組み合わせる)の意味。射手を前後,左右に分け競争させる。
射礼(1月17日)の手結は式日の2日前の15日に,兵部省では親王以下五位以上の者30人を選定し,
その中から能射者20人をえらび,南門の射場において行い,これを兵部手結という。
六衛府の射手は六衛府で簡定しその庁で行う。
 
◆はまぐり【蛤・文蛤・蚌】
①  〔「浜栗」の意という〕 海産の二枚貝。貝殻は丸みをおびた三角形で、表面は平滑で光沢がある。色彩は変化が多いが、黄褐色の地に栗色の紋様のあるものが多い。内面は白色で陶器質。肉は食用とし、貝殻は焼いて胡粉ごふんを作る。日本では北海道南部以南の内湾の砂泥にすむ。養殖も盛ん。 [季] 春。 《 -を搔く手にどゞと雄波かな /虚子 》
②  ① の貝殻。貝合わせに用いたり、膏薬こうやくを入れる容器として用いた。
③  女陰をいう。 「お前の-ならなほうまからう/滑稽本・膝栗毛 5」
[句項目] 蛤能く気を吐いて楼台をなす
 
◆はまぐりよくきをはいてろうだいをなす【蛤能く気を吐いて楼台をなす】
史記 天官書〕
古く中国で、大蛤(=蜃しん)が吐く気で海中から楼台の形があらわれるとされていたこと。
 
◆しんきろう【蜃気楼】
〔蜃(大蛤おおはまぐり)が気を吐いて描いた楼閣の意〕
下層大気の温度差などのために空気の密度に急激な差が生じて光が異常屈折をし、
遠くのオアシスが砂漠の上に見えたり、船などが海上に浮き上がって見える現象。
日本では富山湾の魚津海岸のものが有名。
海市。 [季] 春。 → 逃げ水