◆玉置神社と国王神社


◆玉置神社 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/玉置神社
玉置神社(たまきじんじゃ)は、奈良県吉野郡十津川村にある神社。
大峰山系の霊山の一つである玉置山の山頂直下の9合目に位置し、大峯奥駈道の靡(なびき)のひとつである。
社務所および台所、梵鐘は国の重要文化財。境内地の杉の巨樹群は奈良県の天然記念物。
2004年7月に登録されたユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産・大峯奥駈道の一部。
 
◆玉置神社|聖地・熊野三山の奥の宮
http://www.tamakijinja.or.jp/
神の棲む杜 ショートVer. 30秒
https://youtu.be/pX46wMRdkDs
神の棲む杜 ロングVer. 5分30秒
https://youtu.be/Mahrb5iSlPQ
玉置神社 神の棲む杜
https://youtu.be/Mahrb5iSlPQ
『青蓮』×『玉置神社』2分30秒
(パフォーマンス”装艶”青蓮 衣装デザイン 時広 真吾)
https://youtu.be/5cgAOYWiP68
平成29年11月4日 
重要無形文化財総合指定保持者・能楽師囃子方大倉流 大倉正之助さん鼓演奏 2分37秒
https://youtu.be/TwMejegjkgw
平成29年11月18日 山上の音楽祭 3分57秒
【出演者:大野敬正(津軽三味線)、出口煌玲(龍笛)、原田嘉子(和太鼓)、宮岡信夫(ジャズ・トランペット)】
https://youtu.be/tpaoqK5d1Gg
 
◆国王神社 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE
国王神社(こくおうじんじゃ)は、茨城県坂東市にある神社。
平将門を、その終焉の地に祀る神社である。
正式には國王神社と表記する。
国王大明神や将門大明神の古称がある。
社格は村社。
祭神
平将門平将門命)
岩井は平将門の拠点(島広山・岩井営所跡のほか、関連史跡が数多くある)であり、叛臣とされた歴史を通じて、
地元民の英雄として変わらず崇敬されてきた。
戦前は、神田明神明治天皇親拝の際、朝敵とされた平将門命が祭神から外されたという騒動を受けてか、
公式には大己貴命一柱を祀っていた。
平将門を祀るという由緒は特段隠されておらず、茨城県神社写真帳は、大己貴命を祀る社が元々存在したか、
新たに創祀して平将門の神霊を迎えたのではないかとする推察を付している。現在、大己貴命は祭神から外れている。
由緒
社伝(「国王神社縁起」及び「元享釈書」)によると、平将門の戦死の際、難を逃れ奥州の恵日寺付近に庵を結び出家し
隠棲していた将門の三女如蔵尼が、将門の33回忌にあたる天禄3年2月(972年)にこの地に戻り、
付近の山林にて霊木を得て、将門の像を刻み、祠を建て安置し祀ったのがはじまりとされる。
神像は制作年代不詳だが、文化財解説は室町時代の作としている。
御霊信仰に基づき、平将門の神霊を鎮めるために創祀されたという説もある。
慶安元年(1648年)、徳川家光が圭田10石を寄進。
万治2年10月(1659年)、火難により故事不詳となる。
延宝3年(1675年)、拝殿を建立。文化財解説では再建棟札にある文化14年(1817年)が妥当としている[4]。
文化14年(1817年)、本殿を再建。
明治維新後、近代社格制度で村社に列する。
明治41年4月(1908年)、守神社、疱瘡神社、浅間神社を合併。
昭和47年4月(1972年)、岩井将門まつりが始まる。
 
◆国王神社|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|十津川村
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/01jinja/04south_area/kokuojinja/
南朝ゆかりの国王神社は第98代長慶天皇をお祀りしており、南北朝時代南朝長慶天皇北朝勢のために
十津川の上流で自害なされ、村民がその御首を下流の河津で発見し南帝陵として手厚く葬られました。
現在でも「頭の神様」として崇められています。
 
平将門首塚 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80%E3%81%AE%E9%A6%96%E5%A1%9A
平将門首塚(たいらのまさかどのくびづか)とは、平将門の首を祀っている塚。
将門塚(まさかどづか、しょうもんづか)とも呼ぶ。東京都指定の旧跡である。
概要
伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって
飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門首塚とされている。
その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外(地図)三井物産本社ビル傍にある首塚である。
かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。
 
◆将門塚
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/362/Default.aspx
 三井物産ビルの東側に、将門伝説の首塚がの碑が建っています。
 平安時代、朝廷に反逆し下総で討死した平将門の首が京でさらされ、その首を所縁の人々がもらい受け、
 当時の武蔵の国豊島郡平川村(皇居平河門あたり)の観音堂かたわらに埋葬したとも、
 怨念で京から首がこの地に飛んできたものを祀ったともいわれています。
 13世紀になって首塚は荒廃し、将門の亡霊は大いに怒って江戸の民に祟り、また改めて手厚く供養したといい伝説があります。
 塚そのものは関東大震災後、大蔵省再建の際に崩されたようです。
 なお、この地は、江戸時代寛文年間、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、山本周五郎歴史小説樅の木は残った」の
 原田甲斐の刃傷事件の舞台となったところです。
 千代田区内には将門にゆかりのあるところとしてこのほか、神田神社(明神)と築土神社があります。
 また、「将門塚保存会」の元会長の自宅であった神田の家も、2009年神田神社脇に移築されています。
 
◆日本三大怨霊!平将門の祟りが怖すぎる千代田区「将門の首塚
https://www.travel.co.jp/guide/article/9868/
2017年7月11日
崇徳天皇菅原道真平将門という非業の死を遂げた歴史上の3人を日本三大怨霊と呼んでいます。
その中の平将門は、古代の朝敵から中世の崇敬対象、そして明治時代の逆賊視から戦後の英雄化と、
時代と共に評価が変わる興味深い人物です。
更に興味深いのは、現代でも将門の祟りが恐ろしいと噂されていることです。
将門が供養された神社
神田明神」は、730年に大己貴命(大国様)を祀って、現在の千代田区大手町に創建されました。
14世紀初頭、平将門の祟りと云われた疫病が流行しました。
そこで将門を葬った墳墓「将門の首塚」の近くにあった神田明神が、将門の霊を供養し疫病が沈静化したことから、
1309年に平将門を祀りました。
 
崇徳天皇の波乱万丈 最強の怨霊か、それとも最高の歌人か - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
https://bushoojapan.com/tomorrow/2014/05/28/21545
2018/02/09
エラい人ほど大変なことも多いものですが、各国の王族もその例外ではありません。日本の場合はもちろん皇室です。
幸か不幸か、皇室の場合は政治的な権力を握っていた期間はあまりないため、名目として利用されたり担ぎ上げられたりと
いったことが多く、命にまで危険が及んだ方は多くないのですが。
もしかしたら皇室がずっと続いている理由の一つかもしれませんね。
とはいえ、(伝説上)今上陛下まで125代=125人の天皇がおられるわけですから、
中には不遇の一生を送った方もいました。
本日はその中でも一・二を争うであろう不幸に見舞われた方のお話です。
元永二年(1119年)の5月28日は、崇徳天皇が誕生された日です。
2年前のNHK大河ドラマでも特異なキャラでしたが、多分この名前に聞き覚えのある方が持つイメージは
「日本三大怨霊の一人」か、もしくは「百人一首歌人の一人」の二つに一つでしょう。
なぜこれほどかけ離れた印象があるのかというと、この方の生涯があまりにも落差の激しいものだったからです。
 
崇徳天皇(すとくてんのう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))
日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。
譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。
鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。
 
菅原道真 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/菅原道真
菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))
日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。
官位は従二位・右大臣。贈正一位太政大臣
 
◆道真公のご生涯 | 太宰府天満宮
http://www.dazaifutenmangu.or.jp/about/michizane
菅原家は、天穂日命あめのほひのみこと※に起源をもち、曾祖父古人公の時代に、学問をもって朝廷に仕える家柄となりました。
また、道真公の祖父、清公きよきみ公は私塾を設け、同所からは朝廷の要職に数々の官人を輩出し、
菅原家は一大学閥となっていきました。
天穂日命天照大御神より生まれた神様で、「農業・産業の神様」として信仰されている。
波乱万丈のご生涯
類まれなる才能の持ち主であり、人々から厚い信頼を得ていた菅原道真公。
そのご生涯は、政略による左遷など波乱万丈のものでした。
 
菅原道真はなぜ学問の神様なの?道真の生涯と神さまになるまで | ホトカミ
https://hotokami.jp/articles/114/
2018/01/29
太宰府天満宮湯島天神など、有名な学問の神社にはなぜ菅原道真がまつられているの?」
 「菅原道真って何をした人なの?」
受験シーズンも本格化し、神社に合格祈願に訪れる方も多い季節となりました。
実は、学問の神様として知られる ...
天満宮と名のつく神社は、すべて菅原道真をご祭神としていることをご存知でしょうか?
なぜ菅原道真は学問の神様なのでしょう?
そもそも菅原道真って誰なんでしょう?
今回は菅原道真の生涯と、
彼が学問の神様として日本の人々に親しまれるようになるまでの経緯をご紹介します。
 
◆日本三大怨霊 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%A4%A7%E6%80%A8%E9%9C%8A
日本三大怨霊(にほんさんだいおんりょう)とは、日本に数多伝わる怨霊の中でも特定の三人を指す呼称である。
山田雄司は、菅原道真平将門崇徳院が三大怨霊とみなされるようになった背景には、
江戸時代における読本や歌舞伎などが大きく影響を与えているとしている。
 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%9B%84%E5%8F%B8
山田雄司(やまだ ゆうじ、1967年- )は、日本の歴史学者三重大学教授。日本中世史専攻。博士(学術)。
来歴
静岡県生まれ。静岡県立沼津東高等学校を経て、
1991年京都大学文学部史学科卒業。
1998年筑波大学大学院歴史・人類学研究科史学専攻博士課程修了、「崇徳院怨霊の研究」で博士(学術)。
1999年三重大学人文学部講師、
2001年助教授、
2007年准教授、
2011年教授。
著書
崇徳院怨霊の研究』思文閣出版、2001
『跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー、2007 ISBN 978-4-642-05637-3
『怨霊・怪異・伊勢神宮思文閣出版、2014
『怨霊とは何か』中央公論新社、2014
“The Spirit of Ninja: A Study of the Global Ninja Craze”Kosaiji Books、2015
     『忍者の霊:世界の忍者流行の研究』扶桑社2015
『忍者の歴史』KADOKAWA、2016
『忍者はすごかった-忍術書81の謎を解く-』幻冬舎、2017年
 
◆日本三大怨霊 (にほんさんだいおんりょう)とは【ピクシブ百科事典】
https://dic.pixiv.net/a/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%A4%A7%E6%80%A8%E9%9C%8A
日本で特に畏れられた怨霊
日本三大怨霊とは、日本の伝承に登場する怨霊の中でも非業の死を遂げられたお三方が挙げられる。
菅原道真  すがわらのみちざね
https://dic.pixiv.net/a/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F
平安時代の政治家・学者。醍醐天皇の御代に右大臣となったが、藤原時平の讒言によって大宰府に左遷された。
平将門崇徳上皇と共に「日本三大怨霊」として後世の人々から恐れられ、現在では「天神様」として知られ、
江戸時代より学問の神様(合格祈願の神様)として信仰されている。
 
平将門  たいらのまさかど
https://dic.pixiv.net/a/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80
平安時代に関東地方で反乱を起こした武将。
没後、崇徳上皇菅原道真と共に「日本三大怨霊」として後世の人々から恐れられた。
 
崇徳院崇徳上皇   すとくじょうこう
https://dic.pixiv.net/a/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E4%B8%8A%E7%9A%87
平安時代の第75代天皇、及び譲位した上皇。没後、平将門菅原道真と共に「日本三大怨霊」として後世の人々から恐れられた。
 
 一般的に江戸時代に読本や歌舞伎など、後世に物語化され親しまれた上記お三方が三大怨霊とされる。
 他に、日本の史料上で初めて「怨霊」という言葉が用いられた早良親王を三大妖怪として挙げる人もいる。
 都をひとつ廃都させるほどの被害をもたらした怨霊は早良親王のみであり、
 国家・社会全体にもたらした影響の大きさから日本三大怨霊を上回る最大・最強の大怨霊ともされる。
 なお、それぞれ怨霊として畏怖されていると同時に、
 霊を鎮めて平穏をもたらす神として祀る御霊として信仰されている鎮護の神でもある。